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第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
    二 禅宗諸派の展開
      諸山の日円寺
 日円寺の開山の元翁本元は高峰顕日の門弟で、無学祖元の孫弟子にあたる。元翁は夢窓と兄弟弟子であり夢窓と行動をともにした人物で、京都十刹第二位で京都嵯峨大堰川の臨川寺開創に関わった人物として知られる。仏光派(仏光は無学の禅師号)の寺院ということになる。現在は廃寺となっているが別院山の山号をもつので、今立町別印にあったことが知られる。別印の地名は道元の弟子覚念が建立した寺院が永平寺の別院的存在であったところからそう称されるようになったといわれており、覚念が月尾山の下の同地に塔婆を建立したという伝承をもつ地である(「永平開山道元禅師行状 建撕記」、以下「建撕記」と略)。日円寺の前身は覚念の開いた寺院であったとも考えられる。通称法界門のあたり一帯が寺跡であると考えられており、近くの教徳寺裏の山道からは至徳三年(一三八六)の銘文がある八角石塔が出ており(『今立町誌』)、文永八年(一二七一)の銘文をもつ五輪塔もあったとされている(『岡本村史』)。元翁の没年が正慶元年(一三三二)なのでそれ以前の成立であろう。
 五山・十刹・諸山を記した『扶桑五山記』には越前国の安国寺と付されているが、安国寺となったのは永徳寺であるから、日円寺が安国寺とされるのは越前の利生塔が存在したがゆえの誤記ではないかとされる。『扶桑五山記』にも「多宝塔」の存在が記されているが、五山派を統制した鹿苑院僧録のもとで実務を担当した蔭凉軒の記録である『蔭凉軒日録』の嘉吉元年(一四四一)六月十七日条によれば、同寺に塔婆が造営され、これに対して幕府は五〇〇〇疋(五〇貫文)を寄進している。これが以前からあった利生塔の再建なのか、別の所にあった塔が破損したので同寺に建立したのかは不明であるが、何の記載もないので、以前から存在した可能性が高いといえよう。
 安国寺・利生塔とは、足利尊氏と直義兄弟が夢窓疎石の勧めもあって、元弘年間(一三三一〜三四)以来の戦乱における戦没者の供養のために各国に一寺一塔を建立したものであり、建武四年(一三三七)に計画され、同五年ごろから貞和年間(一三四五〜五〇)にかけて設置されたものである。
 日円寺が諸山に列せられた時期は不明であるが、永享八年(一四三六)八月六日に素首座が新住持の公文を願い出ているので、それより以前に諸山であったということになる(『蔭凉軒日録』同日条)。汝霖妙佐(一三九〇年ころ没)という五山文学僧が、一関妙夫の入寺のさいの諸山疏(近隣の寺院が歓迎の意を表わす詩文)を作成しているので、十四世紀末ごろには諸山に列せられていたかもしれない(「汝霖佐禅師疏」)。そして、塔婆造営のころの住持は有章和尚であり(『蔭凉軒日録』嘉吉元年六月十七日条)、その後も統一宗・胤嗣宗(「流水集」)・素首座(『蔭凉軒日録』文明十九年五月二・十八日条)・徳首座(同 延徳二年閏八月九日条)などが住持に就いている。素の場合、入院のさいの山門疏が記録されている(同 文明十九年五月十八日条)。日円寺は、京都南禅寺内にある続宗軒の末寺であると記録されている(同 寛正五年三月二十七日条)。続宗軒は堅中圭密の塔頭(塔所・支院)である。堅中は同じ仏光派であるが日円寺の開山元翁の法系ではない。どのようなことで南禅寺続宗軒の末寺となったのかその理由は不明であるが、十五世紀の中ごろには続宗軒の末寺として存在したのである。また、このころ日円寺は「守護違乱」に巻き込まれ訴訟をおこしており、その経営は容易ではなかったようである(同 寛正四年十一月二十七日条)。そして永正十四年には、一麟□慶という禅僧が住持に就いている(「幻雲稿」)。



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