目次へ  前ページへ  次ページへ


第六章 中世後期の宗教と文化
   第一節 中世後期の神仏信仰
    一 宗教秩序の変容
      本寺と末寺
 本末関係は院政期に広範に展開した。国衙や在地領主の圧迫から自らを守るため、地方寺社は中央の権門寺院と本末関係を取り結んだ。しかしこれによって末寺は末寺役や軍役を負担しなければならなかったし、別当補任権や寺領支配権を本寺に掌握された場合も多い。本寺からすれば、年貢や夫役を負担する点で、末寺は荘園・所領と変わらなかった。しかし本末関係が「本末契約」によって成り立つ以上、負担に見合うだけの便宜が得られなければ本末関係は破棄されることになる。しかも中世後期になると寺領保全のうえで守護の果たす役割が大きくなってくるし、守護や戦国大名の立場からしても、領国経営に外部の権門寺社が介入することは歓迎できなかった。こうして院政期に登場した強固な本末関係は次第に途絶え、その流動化と空洞化が進行する。
 平泉寺は院政期に延暦寺の末寺となり、平泉寺長吏の補任権を延暦寺が掌握したが、吉田郡藤島荘をめぐる対立もあって、南北朝以降、延暦寺との本末関係は空洞化の一途をたどった。丹生郡織田寺の場合はやや特殊で、享徳二年(一四五三)延暦寺は「国方無理の押妨」を退けるために「本末契約」にのっとって織田寺を扶助すると決議している(資5 劒神社文書四号)。そして文正元年(一四六六)には、朝倉孝景は「山門末寺織田庄織田寺」に対する兵粮米以下の賦課を停止している(同六号)。織田荘そのものが延暦寺領ということもあって、ここでは中世前期的な本末関係がなお維持されているが、それも応仁・文明の乱以降は途絶え、代わって朝倉氏が織田寺玉蔵坊を祈願所として保護を加えている(同一〇号)。また明通寺は応永三十二年に延暦寺との本末関係を復活し、坊領以下いっさいを延暦寺に寄進してその下知に従うと誓っているが(資9 明通寺文書五二号)、これ以後延暦寺との関係は確認できない。神宮寺は天文五年の京都での天文法華の乱にさいし延暦寺の要請を受けて出陣しているが、これはあくまで武田元光の了解のうえでの出陣であった(資9 神宮寺文書四〇・四一号)。
 このように中央の権門寺院とその所領とみなされた地域の末寺との関係は、戦国期にはほぼ解体している。それに代わって登場してくるのが、(1)法流を基礎とする本末関係や、(2)朝廷と関係を取り結ぶための便宜的本末関係、(3)大名領国を単位とする本末関係である。
写真272 坂井郡性海寺(三国町南本)

写真272 坂井郡性海寺(三国町南本)

 (1)についていえば、例えば坂井郡性海寺住持は永禄三年(一五六〇)に上洛して醍醐寺報恩院源雅から印可を受けたが、そのさい末寺として疎略なきことを誓っている(資4 滝谷寺文書六六号)。また羽賀寺の僧侶は延暦寺や高野山に遊学している。祈や教学面での蓄積の大きさが、受法を介しての本末関係を成り立たせていた。また末寺の僧位僧官や香衣・上人号、さらには勅願寺の申請を取り次ぐなかで本末関係が維持されている場合も多い。永禄六年に滝谷寺は口宣の礼を醍醐寺報恩院に進上しており、滝谷寺住持が法印・大僧都といった官位を本寺を介して手に入れたことがわかる(同八五号)。敦賀西福寺は本寺の浄華院(清浄華院)を介して、永享二年に将軍家祈所と寺領安堵の御判御教書を得ているし、文安二年には後花園天皇の祈願所となって寺領安堵の綸旨を取得し、天正六年には正親町天皇から香衣参内の勅許を得ている(資8 西福寺文書九四・一一一・二四九号)。天正十五年には京都の廬山寺が越前安養寺の香衣勅許を仲介しているし(資2 廬山寺文書二一号)、泉涌寺も越前の末寺僧の上人号を申請している(『御湯殿上日記』天文十七年五月七日条)。
 しかし、こうした香衣や上人号を取り次いだのは本寺だけではなかった。朝倉氏が越前の僧侶の上人号を取り次いだ事例もあるし(同 享禄四年十月十日条)、公家・女官を介して勅許を得る例も非常に多く(『後奈良天皇日記』)、僧位僧官や香衣・上人号を仲介したのは本寺に限定されていない。本寺にとってはこれらの仲介は本末関係を維持するうえで重要であったが、地域寺院の立場からすれば、本寺以外にも多元的なルートがあった。この時代の本末関係が流動的な原因はここにある。
 次に(2)のように本寺を次つぎに変える例も多い。浄土真宗の今立郡毫摂寺は永正十五年に五貫文と上絹一疋を納入して仁和寺の門家となり、それを介して後柏原天皇の勅願寺となった。ところが天正十七年には、延暦寺青蓮院門跡の院家に准じるという寺格を認められ、後陽成天皇の勅願所の綸旨を得ている(「永正十三年八月日次記」、資6 本山毫摂寺文書三・四号)。青蓮院はまだしも、毫摂寺が真言宗の仁和寺と結びつく宗教的要因は考えられない。勅願寺となるために本末関係を取り結んだもので、その継続性についてはおおいに疑問がある。この時代の本末関係の流動性を象徴する事例だろう。
 こうしたなかで本末関係の重層化現象も現われる。大規模な寺院になれば院家や子院を数多くもつようになるが、そのさいそれぞれの院家が惣寺とは別の宗派となり、独自の本末関係を取り結ぶ場合である。羽賀寺は応永二十七年に延暦寺末寺であることを再確認したが(「天台座主記」)、宝徳二年(一四五〇)には東密僧の定乗が「東寺の流」の院家を開いている(資9 羽賀寺文書五六号)。これに関し「羽賀寺縁起」は、「本寺はなお青蓮院に属す」と注記しており、羽賀寺が青蓮院末、そして院家の一つが東寺末という、重層的な本末関係になっていることがわかる。明通寺の場合、応永三十二年に延暦寺根本法華堂と「本末の契約」を取り結んだが、寺内の日光坊は東密を維持している(資9 明通寺文書五一〜五三号)。しかも明通寺は武田氏の祈願寺であるが、日光坊は武田氏の有力家臣白井民部の祈所となっており、院家は宗派の面でも、檀那の面でも、自立性をもって存立していた(同八〇・八四号)。また豊原寺は鎌倉中期に延暦寺妙法院門跡の末寺となったが、寺内の円福院は東密の院家であった(資4 豊原春雄家文書一号)。こうした本末関係の重層化も中世的な本末関係の解体現象といえよう。
写真273 遠敷郡万徳寺(小浜市金屋)

写真273 遠敷郡万徳寺(小浜市金屋)

 中世的本末関係の流動化の一方、戦国期になると従来なかった新たな形の本末関係が登場してくる。これが(3)で、領国を越える本末関係が空洞化してゆく一方、大名権力を背景に領国内の本末関係が維持・強化されている。その代表的事例が遠敷郡正照院(万徳寺)である。享禄五年に武田元光は正照院を「当国真言根本の寺」と定め、寺法を制定している(資9 萬徳寺文書四号)。そして寄宿や棟別・段銭等の臨時課役免除、田畠山林等の安堵、堂舎造営頼子(頼母子)や祠堂銭の徳政免除など経済的特権を保証するとともに、正照院の門徒諸寺は宗旨・法流を改めてはならないこと、末寺は正照院が進退(支配)するのであって領主や代官が無断で末寺に介入してはならないこと、住持に背く寺僧は権門勢家や寺社がかばっても追放すべきであること、他国遊学から帰った寺僧・客僧が正照院の了解なく他寺に移住してはならないことなどの規定を定め、これに違背した者を罪科に処すと下知している。ここでは末寺や寺僧に対する正照院住持の統制権を武田氏が全面的に支持しており、武田氏は一国内の東密系寺院を正照院を頂点に権力的に再編しようとした。
 さらに武田信豊は天文十三年に正照院が「当国真言衆」の「本寺」であることを再確認し、祈願所に認定して駆込み寺の特権を認めたし、寺僧・同宿・下部や被官人らに対する独自の検断権を認めている(同五号、資9 中山寺文書二一号)。しかも弘治三年(一五五七)には、若狭の諸寺真言宗に対し改めて法度を制定した(資9 萬徳寺文書六号)。そこでは、正照院で受法していない真言僧は認められないこと、正照院で受法した者も正照院住持の代替りには改めて印可を得ること、法流を捨てて正照院との関係を断とうとする者は過怠に処すこと、他国で受法した者も若狭に居住する限りは正照院で受法すべきこと、といった規定がみえる。特に東寺・醍醐寺・根来寺・金剛峰寺などでの伝法潅頂を認めず、一国全体の真言僧に正照院での加行潅頂を強制していること、そして正照院住持の代替りごとに印可を得るよう命じていることは、注目に値する。正照院住持の若狭国真言僧に対する統制は、外在的領域にとどまるのではなく、潅頂という仏教の内部にまで及んでいる。
 大名権力を背景にした末寺支配の強化という傾向は、越前でも確認できる。永正十一年に朝倉孝景は竜沢寺の寺領と末寺支配権を安堵しているし(資4 龍澤寺文書三一号)、滝谷寺は朝倉氏の祈願所となることによって末寺の住持職の補任権を確認されるとともに、永禄七年には開山制定の寺法一七か条および追加五か条を朝倉義景から承認されている(資4 滝谷寺文書九九・一〇〇号)。特に新たに制定された追加法には、当寺の法流相伝の寺は他門になってはならないこと、一門の僧侶や寺内の阿闍梨は他寺・他国で伝法潅頂を受けてはならないこと、一門の僧侶が開壇を望むときは器量を吟味して認可するので勝手に潅頂を授けてはならないこと、といった条項がみえている。朝倉氏の権力を背景にして転派・転宗を禁じるとともに、一門の伝法潅頂授与権を独占することによって末寺に対する統制の強化を図っている。
 もちろん、こうした統制がたやすく進行したわけではない。若狭においてすら「他流・他国を本となす」潮流を断ち切ることは困難であった。しかしここに戦国大名の宗教政策の方向性を看て取ることができるだろう。中世の寺社勢力を特徴づけた自立性は今や危機に瀕し、世俗権力に全面的に依拠した近世的本末関係が芽生えようとしているのである。



目次へ  前ページへ  次ページへ