一乗谷は朝倉氏滅亡ののち引き続いて守護代前波長俊の居城となったが、前波氏も一揆により滅び、やがて一向一揆が越前を制圧した。織田信長は天正三年(一五七五)八月に一揆鎮圧のため越前に出陣し敦賀から府中に入り、八月二十三日に一乗谷へ陣を移し、二十八日には豊原寺へ陣替した(『信長公記』巻八、資3山田竜治家文書一号)。このときに短期間ではあるが信長の本陣となったのが一乗谷の城郭としての最後の所見であり、そののち城下町は柴田勝家の北庄へと移された。一乗谷は長い都市としての歴史を終え、近世農村へと変わっていった。
こうした事情により一乗谷は、近世都市としての再開発がなされず、戦国城下町の全体を今によく伝えている。そして昭和四十六年(一九七一)に国指定の特別史跡「一乗谷朝倉氏遺跡」と名付けられて発掘・整備が続けられ、戦国城下町としてはわが国随一の大規模遺跡として知られている(資13 本文編参照)。ここでは文献史料と考古資料を合わせ考えることにより、一乗谷を中心とする中世後期の都市生活の若干の様相についてふれる。この時期になると関連史料は必ずしも少なくないが、日常生活の実態は意外につかみにくいところがある。そこで、戦国末期に来日した西欧人の著作に当時の日本人の生活風習の大要を記した便利なものがあるので、天正九年四月北庄に来たこともあるフロイスの『日欧文化比較』(一五八五年著)とヒロン『日本王国記』(一六一五年ごろ著)、ロドリゲス『日本教会史』第一巻(一六二〇年ごろ著)、日本イエズス会によって刊行された『日葡辞書』(一六〇三年)などを主に参照して以下叙述する。
まず男子の衣服について、フロイスは「日本人は一年に三回替える。夏帷子、秋袷、冬着物」と述べている(『日欧文化比較』第一章)。これは日本人が季節に応じて衣替えしたことを述べているが、具体的には単・袷・綿入れという三種類の縫製について指摘したものである(『日本教会史』第一六章)。若狭の三方郡御賀尾浦(三方町神子)の刀 であり武士でもあった大音氏の戦国期の資財目録には、衣服として上下(裃)二具・袴肩衣二具・四幅袴肩衣一具・帷子二つ・小袖二つ・布子二つがみえる(資8 大音正和家文書二六三号)。この裃や袴肩衣などは室町期に発達した上下一組の武士の上着である。小袖と布子はいずれも綿入れの一種で、絹製のものを小袖といい木綿製のものを布子といった。値段には大きな差があり、越前の例では小袖が一着三貫文で、遠江の例であるが布子は一着六〇〇文だった(資7 白山神社文書一号、資4 龍澤寺文書四三号)。
『朝倉英林壁書』には、「朝倉名字の中を始め、年始の出仕の上着は布子たるべし(下略)」という一条項がある。衣服の規制は他の戦国大名でもみえ、例えば関東の結城氏では家中に皮袴や木綿肩衣の着用を禁止している条項があり、これは奢侈生活を戒める趣旨で設けられた(『結城氏新法度』六三条)。年始に布子で出仕せよという朝倉氏の規定はやや極端にも思われるが、朝倉孝景は立烏帽子・狩衣といった高価な装束で「国司」と称して国人たちの前に立ち現われて反感をかった苦い経験もあり(『雑事記』文明三年八月五日条)、そうした自分の経験にもとづく規定ではないかと思われる。そしてこうした条文から類推すると、当時の越前の地侍たちは冬にたっぷりと絹綿の詰められた布子を着て生活していたことがうかがわれる。
衣服そのものは遺物としては残りにくく、また流行や時代変遷も著しいので、なかなかその実態をつかみにくい。ただ一乗谷からは紡錘車・糸巻・砧・鋏・縫針などが出土しているので、簡単な衣料生産や裁縫が行なわれていたことが確認される(資13 図版六一五)。
次に履物については、日本人は貴賎を問わず草履を履き、雨のときには裸足か下駄を履いたとされる(『日欧文化比較』第一章)。草履は遺物として大変残りにくいが、一乗谷では一点だけ確認されている。下駄類は多様なものが出土しており(資13 図版六〇六)、数も多く日常的な履物として普及していたらしい。 |