十六世紀中ころ三国湊に明の商船の来航があり、また小浜湊地域には明人居住の事実がある。これはただ偶然のことではなく、日本海海域における明船来航の問題があり、これについて少し述べよう。
天文年間(一五三二〜五五)の中ごろより日明間の商船の往来がさかんとなり、その末年より弘治・永禄(一五五五〜七〇)にかけ、中国の沿海地方に海冦(海賊)が跳梁して日明間の通商は一時断絶の状態にあったが、海冦の勢いが鎮静に向かうとともに商船往来が復興するようになった。
明では初期には抽分(交易税)を課して商船の海外通商を公許したが、やがて一般に下海(渡航)を禁止するようになった。また明は外国との通交には朝貢制度をとり、外国商船の往来にも海禁制度(入・渡船を禁止する制度)をとった。しかしその間に禁を犯して下海する明船もあり、福建の 泉州( 州・泉州)地方はその中心とされた。そして十五世紀末より十六世紀初めにかけて、同地方より南海方面へ通商する船が増え、嘉靖二十年代(一五四一〜五〇)、わが国の天文のころよりやはり 泉州のものを主とする商船が日本へ来航することが多くなった。しかしやがて中国沿海一帯に海冦が跳梁し、倭冦の加わるものもあり、その対策として 泉州を中心に開海禁(海禁の解除)が主張された。嘉靖四十四年(一五六五)に海澄県が設置され、隆慶六年(一五七二)には明の東西両洋の貿易公許が施行された。その結果は、例えばフィリピン関係では、十六世紀末より次の世紀にかけて著しい貿易の発展と中国人の植民居留者の増加がみられたので、このような対外関係の変化が海冦鎮静の大きな要因ともなった。日本船の中国往商についてはほとんどみるべきものもなかったが、明船の来航は次第に増加し、このような展開のうえに明人のなかで日本に来居しあるいは亡命するものが少なくなかった。
中国人の来居は九州地方に多くみられるが、さらに本州の各地にも及んでいる。「伊達輝宗日記」には天正初年ごろ唐人がしばしば伺候することが記される。翰林学士楊一竜は 州人で来日し三年を経て出羽に在り、天正三年(一五七五)秋に虎哉宗乙と米沢の東昌寺に会し、宗乙は一竜の示した七言八句に唱和している。元亀二年(一五七一)常陸の佐竹義重は管内居住の唐人の貨物の陸揚げを家臣の白土氏に監督させている。京都はもとより関東・東北方面にも、十六世紀後期ころ中国人の滞留が少なからずみられたのである。
出雲の宇竜浦は若狭と深い海運関係をもった港津である。永禄四年(一五六一)十月尼子義久の袖判のある日御碕社の小野政光に充てた条々書には、宇竜浦においての北国船諸役は政光の処置に委任すること、唐船着岸のとき尼子氏御用の物を除き諸役については政光が指示することを定めている。永禄六年五月にも尼子氏老臣より政光に充てて、北国船・北国船問職・唐船着岸について同様の指示をしている(「日御碕神社文書」『新修島根県史』史料篇1)。北国船のうちに小浜湊所属の船が含まれたことは確かであろう。また唐船について朝鮮船と考える説もあるようだが、やはり明の商船とみてよいであろう。 |