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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    一 諸産業と職人・商人
      慶松家と橘屋
 戦国期に衣料の商いに関与し、その後も越前の有力な商家として成長したものに、慶松家と橘家がある。慶松家は近世には神宮寺下町に住した商人で、永正十二年二月の朝倉孝景の判物の充所に「神宮寺 太郎三郎殿」とみえるので、このころには足羽三か荘の一つの社荘内神宮寺に居住していたと推定される(資3 慶松勝三家文書三号)。この慶松家は足利義稙の庶子慶松丸を中興の祖とし、慶松丸は義稙に従い越前に来て多田尚広(未詳)の娘を娶ったという。大永年間に苗字を小武に改めた(「慶松家文書」)。永禄八年十二月に朝倉義景は慶松太郎三郎に定書を与え、諸役の免除、当知行地の安堵、国中諸関渡の荷物通行の保証などの従来の特権を確認し、三か荘分の蔵方要脚の運上や催促使について規定した(資3 慶松勝三家文書五・六号)。このように慶松家は三か荘の有力商人の筆頭株に成長したが、朝倉氏が滅亡するといち早く織田信長方に属し、天正元年十月八日に小武氏の一族が本知一〇石余を信長から当知行安堵されている(『源喜堂古文書目録』)。
 次に、木田の橘屋は著名な越前の商人である。由緒書によれば、橘屋は紀州田辺城主田辺飛騨守が大治年間(一一二六〜三一)に越前へ下向して木田に居住したのを初代とし、その本家居屋敷は初代以来「居地を易えず、櫓を挙げ構の塀を築く」というもので、そこには以前から六地蔵があり、十六代龍鳧(慶長十六年没)の代まで構の堀の外で市が立ち、世人はこれを「地蔵の市」と称したという(「歴代由緒記并七居屋鋪部書」)。橘屋は木田一帯に複数の屋敷をもち、近世にも御朱印七屋敷といって由緒を誇った。その一つに観音堂屋敷があり、ここには松尾山の観音像が祀られていたという。この松尾は橘屋の本家居屋敷の西方一帯の古称で、十四世紀には金融業を営む僧侶たちも居住していたことが知られ(資8 大音正和家文書八五号)、木田近辺は早くから北陸道沿いの要地として賑わっていた。
写真243 朝倉義景免許状(福井県立博物館所蔵文書)

写真243 朝倉義景免許状(福井県立博物館所蔵文書)

 橘屋は八代常円(応安五年没)のときに観音の霊夢により調合薬を始めたという由緒をもち、早くから薬種を調合して販売することを本業としていた。朝倉義景の出した確実な文書によれば、橘屋は屋敷の門に「門験」すなわち看板を掲げ、薬の袋には「橘」の字の銘のある印を捺してその品質を保証していた。朝倉氏はこうした特権を橘屋の惣領一人に限ることにより家業継承を確保させ、また家業とは直接関係のない酒売買座の特権も新たに与えている(資3 橘栄一郎家文書二号)。しかし親類などのなかで勝手に調合薬を売る者が出たため、元亀二年橘屋は再びこれを朝倉氏に訴え、さらに引き続いて諸商売と諸役免除を求めて嘉吉元年の綸旨なるものを捧げて訴えた。朝倉氏はそれを認めて元亀二年十二月に免許状を出している(同三〜五号)。
 朝倉氏が滅びると橘屋も信長に従い、軽物座の長たることを認められた。以後、橘屋は織田政権から軽物座と唐人座の統轄を命じられることになるが、この唐人座とは、その役名が「袋役」ともいわれることから橘屋の本業の薬種調合と理解される(同一七号)。また軽物座役の取り沙汰については、天正六年の柴田勝家判物によれば、慶松太郎三郎と橘屋三郎左衛門両人が分国内についてあたることとされている(資3 慶松勝三家文書一〇号)。このように慶松・橘両家は三か荘の有力商人の系譜を引くもので、織豊政権にも順応して栄えた。



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