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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    一 諸産業と職人・商人
      越前の石工
写真239 笏谷石製炉(一乗谷朝倉氏遺跡出土)

写真239 笏谷石製炉(一乗谷朝倉氏遺跡出土)

 石は中世においても基本的な材料の一つだった。石造美術や宗教的な視点から注目されることが多いが、中世後期には多様な分野で石が使われるようになった。一乗谷でも出土遺物のなかには多数の石製品がみられる。火鉢・バンドコなど暖房関係のもの、各種の盤など水を盛る調度品、石臼・大平鉢・茶磨・風炉など調理加工関係のものなど多種に及んでおり、日常生活用具として広く使われた。また谷一帯には三〇〇〇点以上の石仏・石塔が現存し、依然として宗教的記念物として用いられた。これらの石製品のほとんどは、いわゆる笏谷石(緑色凝灰岩)を加工したものである。笏谷石は福井市の足羽山近辺から産出し、柔らかく加工性に優れ、美しく親しみのある独特の味をもっている。
 こうした石製品の採掘や加工には専門的な職人が携わったに違いないが、戦国期の石工については詳らかでない。のちに足羽山近辺の石工たちは石屋・石切などともよばれ、彼らを石屋大工が統率した。この石屋大工は、のちに「石入」ともよばれた。石屋は柴田勝家治下で二一人おり、そののち二五人になった。勝家は二一人の石屋のうち一〇人を木田橋(九十九橋)の石材加工にあたらせ、残る一一人を大石を運び出すところに配置している。そして木田橋ができるまでは石屋の個人的な仕事を優先させることを禁止し、そうした石屋の差配を石屋大工彦三郎に命じている(資3 木戸市右衛門家文書一号)。天正十三年五月、丹羽長重は父長秀の定書を踏襲して石屋中に五か条の定書を下している。それによると、二五人の石屋たちが石切役として一か月に二日ずつ北庄城主に奉公すること(飯米は与えられる)、石のある山を扶助すること、石屋たちの居屋敷と臨時諸役を免除することが規定され、石入に対しては北庄城主の命じた仕事の手間賃をその手作分二町の年貢米で精算することなどが命じられた(同二号)。同年七月羽柴秀吉は石船(石製の水槽)の注文製作を命じ、当時丹羽氏と堀氏の交替期に北庄支配に関係した長谷川秀一は右の石入・石切衆中に注文書どおりの石船を作らせ、かつ輸送途中に破損しないように、また手直しのため、若者一人を付き添わせて大坂城まで運ばせている(同三号)。このように織豊期になると、越前の有能な石屋たちは石入に統率されて領主に結びつけられていった。こうした石工たちの技術が戦国期に確立されていたことは、一乗谷の石製品の水準が高いことからも十分にうかがえる。



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