目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 戦国大名の領国支配
  第五節 越前一向一揆
     三 禁制下の一向衆
      禁制下の証判御文
写真230 「御文」(実如証判本)

写真230 「御文」(実如証判本)

 一向衆の所持するものには、法物類や聖教・典籍類がある。これら所持品は、禁制下でどのような影響をこうむったのだろうか。県下に残っている各宗主証判の御文(御文章)のうち、実如証判御文・証如証判御文は、少なくとも前者は五三点、後者は二一点が知られている。概要は、1実如証判の巻子(折本を含む)が二四点、2年次順不同の冊子が一二点、3年次順の冊子が九点、4未詳分が九点、5証如証判の巻子が一点、6年次順不同の冊子が六点、7年次順の冊子が一二点、8未詳分が五点である。永正末期に実如とその子の円如は、多数の蓮如の御文のなかから五帖八〇通を選んで年次順に配列して「定本」化をなし遂げた。このうち禁制期に下された可能性の高いものは、定本化以後と推測できる3や証如期の5〜8である。この越前域内での数値は、他国と比較しても決して遜色はない。例えば美濃の場合、各市町村史類や『真宗聖教現存目録』によると、実如証判本一七点・証如証判本一三点である。各寺が亡命先から戻るさいに、実如・証如証判本に限って一緒に持ってきたわけではあるまい。
 諸寺の由緒書には、本尊・画像類とは違って、御文の来歴・由来の記載はほとんどない。某門徒の寄進が判明する少数の例外のほかには、伝来の言い伝えも少ない。また本願寺派の福井市月輪寺の場合は、1を一点、3を二点所持しているが、同寺は戦前まで誠照寺派に属していた。これらの特徴をふまえて推察するに、寺院を欠いたままで現地に在住し続ける在俗門徒団、彼らの結集軸の一つが証判御文だったのではなかろうか。これを結集軸とした門徒団が近世にたどり着き、「講」名をともなって史料上に登場し、やがてそのなかの一人が道場・寺院を建立し、寺院縁起・由緒書作成後のある時点で、土垢・手垢のついた共有の証判御文を継承したり、寺檀制度の確立と講結合の解体によって最寄りの寺へ寄託して、そして現代にいたったのではなかろうか。



目次へ  前ページへ  次ページへ