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 第四章 戦国大名の領国支配
  第五節 越前一向一揆
    二 加越の一向衆と朝倉氏との戦い
      永禄末の加賀一揆と加越和睦
 永禄七年(一五六四)八月から朝倉勢は加賀深く侵攻し、能美郡一帯から石川郡境目までが戦線と化した。本願寺は極めて強い危機感を抱き、はるか遠く豊後の門末にまで支援を要請して全国的規模での支援体制を講じた。すなわち、越前周辺の坊主衆・門徒衆はことごとく甲冑をつけて陣詰めして戦うよう命令が下され、遠方の門徒衆は軍費を用立てて進上するよう命令が下されている(『本願寺文書』一九号)。戦いは小松口・本折口・鵜谷口・湊川・寺井口などで交わされ(資2 松雲公三六・三八号、「上越市本誓寺史料」年未詳九月二十七日付某道寿奉書)、翌八年四月・八月と激戦が続く(「産福禅寺年代記」)。永禄八年と推定される二月二十八日付上杉輝虎書状に、前年に加賀侵攻に関する盟約を朝倉氏と結んだと述べられている(資2 米沢市立図書館 歴代古案一号)。本願寺側も、朝倉勢の侵攻を越後(越中)上杉氏・能登畠山氏と連絡を取り合ったうえでのことと認識しており(「反古裏書」)、同年三月には本願寺と甲斐武田信玄との盟約が成立する(「顕如上人文案」上)。かくして北陸一帯の各勢力も本願寺自身も、戦国大名間の覇権をめぐる激烈な戦いに一挙に巻き込まれはじめる、そのような新時代に入っていったのである。
 本願寺は加賀における劣勢を打開しようとして、翌九年正月に京都吉田社に依頼して桔梗の紋をあしらった家旗・先惣旗を新調し(「兼右卿記」同年正月七・二十四日条)、筆頭坊官の下間頼総は二月にそれを持って金沢へ下り、戦況の立直しを図った。その結果、戦線は加越国境まで戻り、十年三月には坂井郡の有力武将堀江景忠が朝倉氏に背き、力を得た加賀一揆勢は金津上野まで出張し、熊坂口・牛屋口・高塚で激戦が交わされた(資2 金沢市立図書館 野村家文書一号、儀俄甚一郎氏所蔵文書一号など)。十一月に流浪中の足利義昭が一乗谷に入り加越の和議を仲介し、その結果、坊官杉浦玄任の子の又五郎が人質として朝倉氏のもとへ越し、両軍は十一月に戦線から撤兵した。加賀では、主戦派の「石川・河北之面衆」が「悉成敗」されている。ところが翌十一年三月にまたしても戦いが生じ、敦賀の朝倉景恒勢が攻勢をかけ、金津へ侵攻した杉浦・堀江勢は加賀へ退却した(「朝倉始末記」、「産福禅寺年代記」)。十二年四月にいたり、最終的に朝倉氏と本願寺・加賀指導部は和議を締結した(「顕如上人文案」上)。顕如の室の如春尼と義景の室(但し早世)はともに細川晴元の子女であったが(「朝倉始末記」)、元亀二年(一五七一)四月に義景の娘が将来顕如の子教如へ嫁する約束も交わされた(「顕如上人文案」上)。かくして永正三年以来の一向宗禁制は六〇年ぶりに解除され、亡命寺院は続々と越前各地へ復帰していった。敵対関係から同盟関係へと一挙に劇的に変化した理由として、直接的には足利義昭の仲介があったが、より根本的には、越前と加賀との長期間に及ぶ断続的な戦いで両国の軍事力は疲弊の極に達し、越後上杉勢の伸長や織田信長勢の上洛という新情勢の展開に座していられないとの共通認識があったためであろう。



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