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 第四章 戦国大名の領国支配
  第五節 越前一向一揆
    二 加越の一向衆と朝倉氏との戦い
      永正三年一揆
 文亀三年(一五〇三)四月、朝倉庶子の景豊は謀叛をおこし、貞景の成敗にあい敦賀で討たれた(資2 八坂神社文書二四号)。翌永正元年(一五〇四)七月には、景豊と結んでいた朝倉景総(元景)らの牢人衆が加賀から坂井郡内へ攻め入る事件がおこった(『後法興院記』同年八月二十二日条、資4 龍澤寺文書四一号)。ともに、時の権力者たる管領細川政元の関与が指摘されている。この時期の本願寺は政元と親密な関係にあり(『実隆公記』永正元年閏三月十五日・同二年九月十一日条)、加賀の一門も反政元派である朝倉氏に対する越前牢人衆の動きにあえて非を唱えなかったものと推察できる。
図047 永正3年の一向一揆関係図

図47 永正3年の一向一揆関係図

 永正三年三月、畿内の流動的政局のもと、本願寺実如は足利義尹(義材・義稙)・畠山派が主流を占める北陸諸国の大名勢力を攻撃する一向一揆を命じた。おそらくは細川政元の強い要請があったのだろう(『後法成寺関白記』同年七月十六日条など)。この永正三年北陸一揆は、宗主が命じ一門衆が指令する初めての、しかも広域的な一揆であった。当時一門衆は加賀にのみ在住しており、その支配権が越中・能登・越前の門末にまで及んでいたため、一揆はただちに北陸一帯の戦乱へと転化していった。加賀の場合は一向衆の急速な伸長がみられ、また越中・能登の場合は大名勢力との摩擦が増大しており、各地の一向衆はこの呼びかけに即応したものと思われる。
 同年三月に加賀一門の本泉寺蓮悟は檄文を発し、越中の長尾勢・能登の畠山勢打倒への決起を促した。六月にいたり越前一向衆が蜂起し(『宣胤卿記』同年六月二十六日条)、新たに越前方面でも戦いが開始される。七月に入ると、この越前一揆に合力するため加賀・越中・能登衆や甲斐牢人衆が連合して侵攻し、国内の一向衆と合流して、一説には三〇万といわれる一揆勢が九頭竜川北部一帯に布陣した(「朝倉始末記」)。朝倉方では敦賀郡司の教景が大将となり吉田郡中ノ郷に陣取り、高田派・三門徒派勢力も与同して迎撃の陣を張った。両軍は藤島・鳴鹿・志比・高木口・黒丸・松本口・中角の渡しなど、九頭竜川の両岸約一四キロメートルにわたって対陣した。七月十三日以降、中角方面・九頭竜口・鳴鹿口で、あるいは大野・赤坂・岩屋・豊原口・中江(中ノ郷か)・芝原・高木などで激戦が交わされたが(「当国御陳之次第」)、八月六日の中ノ郷での戦いを機に一揆軍は全線で総崩れに陥り、大敗北を喫するにいたった(『宣胤卿記』同年七月二十一日条、「朝倉始末記」)。
 公家の日記類や「当国御陳之次第」をみると、八月中旬以降、戦いは急速に鎮静化している。「川那部系図」には、加賀一門たる波佐谷松岡寺の内衆下間照賢が八月十六日に九頭竜川辺で討死したと記されている。照賢の妻は和田本覚寺蓮恵の娘であり、あるいは越前戦線における一揆の統括責任者は松岡寺で、現場の指揮者が下間照賢だった可能性も考えられよう。なお、越中・能登方面の一揆は蓮悟が統括したものと思われる。越中戦線では九月に一揆勢が長尾能景を敗死させ、越後勢を放逐することに成功した。翌永正四年八月、加賀衆や亡命した大坊主勢が越前へ攻め入るが、「帝釈堂の合戦」で敗走を喫した(「当国御陳之次第」)。朝倉勢と一揆勢の戦いはこれ以降みられない。翌四年六月に政元が暗殺され、それ以後の畿内の政情は一挙に混迷に向かう。本願寺実如も全く身動きがとれなくなったはずだと判断したのか、朝倉氏側では同年末に配下の者の軍功に対して感状を出し(資7 小嶋吉右衛門家文書二号)、戦時体制を解除した。なお詳しい年月は未詳であるが、本願寺の下級坊官に率いられた近江の一門顕証寺勢・近江北郡の一向衆・摂津天王寺の者たちも、越前方面の一揆勢へ与同する目的で敦賀口から侵攻している(「本福寺門徒記」、「朝倉始末記」、『朽木文書』三八四号など)。越前一揆は、まれにみる広域的な一揆だったことが知られよう。ところで永正三年八月には、禁裏料所の吉田郡河合荘では「土民」の家がことごとく焼けたとみえている(『宣胤卿記』同年八月二十二日条)。同荘の人びとが直接一揆に加わったか否かは判然としないが、一揆勢はもっぱら朝倉勢の打倒にのみ目標を絞っていたわけではない。実際、坂井郡三国の滝谷寺では一揆時に寺領目録や「聖教」が紛失している(資4 滝谷寺文書五・二〇号)。
 越前の一向衆がどういう組織形態で一揆に臨んだのかは判然としない。加賀のような蓮如男系の一門寺院はないので、「越前教団」としての自律的な意思決定や行動は不可能であった。また、加賀のような一門寺院を与力する目的で一定地域ごとに本末関係を横断した形の組織体(「組」)も形成されていなかった。越前在住の庶子一族は蓮如以前の本願寺歴代住持の庶子一族や蓮如の女子ばかりであり、それらの庶子一族寺院は旧来からの土着の大寺院と同様に競って本寺的展開を指向し、末寺・道場を各地に点在させていった。帰参していた三門徒系の各集団もその独自的な結合を解かなかったものと思われる。各本寺それぞれに本末関係を育成し強化していく過程で永正三年一揆を迎え、門末は各本寺ごとに結集して赤坂・岩屋などそれぞれの地に陣取って戦い、そして敗れ去ったのであろう。



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