元亀三年三月、信長は上洛の途次に江北を攻め、ついで河内の三好方に攻撃を加えた。そして信長はその帰路に高島郡に兵を入れ、越前と京都との連絡路に対して牽制した。義景は三好方とも連絡して再度の近江出兵を決意してその準備を進めた。信長は秋になると本格的に小谷城に攻撃をかけ、これに対陣すべく七月に景鏡が小谷へ出兵し、ついで義景も出陣して小谷城の奥の大嶽(大筑)に居陣した(「越州軍記」)。信長方は虎御前山に向城を築いて小谷城攻めの前進基地にしたが、主として人事工作面に攻略の重点を置いていたので、その結果義景の近臣前波吉継や富田長繁が寝返って信長方についた(同、『信長公記』巻五)。これに対して義景は有効な反撃をなしえず、次第に在陣が長びいていった。
一方、甲斐の武田信玄は十月三日に甲府を出発して遠江に進攻した。信玄は十月朔日付で小谷城の浅井長政・久政と朝倉義景に書状を送りこの出兵について連絡し、かつ浅井・朝倉両氏が協力して信長方にあたることを申し入れている(「南行雑録」)。また信玄は本願寺顕如とも連絡して事にあたっており、信長と家康を東西から挟撃しようともくろんでいたことがうかがえる(「顕如上人御書札案留」)。しかし義景はまたも十二月三日に帰陣を始め、あくまでも国外での越年を避けている。信玄は同月二十三日の三方原の戦いで家康方を破ったが、義景の帰陣を知って激しくこれを非難した(資2 伊能文書一号)。
足利義昭と信長とは次第に対立を深めており、翌天正元年(一五七三)二月、ついに義昭は滋賀郡に兵を挙げさせた。義昭は義景にも出陣を命じたが、信長方の武将は石山や今堅田を平定してしまった。義景は三月十一日に敦賀まで出陣した(「越州軍記」)。しかし信長方の湖西の守りが固いため滋賀郡方面まで出兵することはできず、また小谷城に対しても普請などの支援を続ける必要もあったので敦賀にとどまらざるをえなかった。そうしている間に信長は上洛して、京都周辺や義昭に荷担した上京などを焼いて二条城を包囲した。義昭は正親町天皇の勅定を得ていったん信長と和睦し、信長も岐阜へ下向した。この間、義景は信長の越前進攻を警戒して敦賀在陣を続けていたが、結局大規模な江北攻めもなく、義景は五月十日に一乗谷に帰陣した(同前)。
あくまで信長に反抗した義昭は京都を放棄して、七月三日に宇治の槙島城に拠って再度挙兵した。信長はただちに上洛して槙島城を落とし、義昭を追放した。実質上の室町幕府の終焉である。そのころ義景は山崎吉家・河合宗清らを近江の高島郡に派遣し、ついで七月十七日に浅井氏救援のため一乗谷を出陣した(同前)。義景最後の出陣だった。信長は帰路に高島方面を攻めて、八月四日岐阜に帰った。その直後の六日、義景は敦賀から江北へ進発した。信長は八日夜にただちに岐阜から進発し、江北の浅見・阿閉・月ケ瀬ら一部の浅井方武将の内応を得て越前兵の守る大獄・丁野両城を落し、自ら先頭に立って義景の本陣に向けて襲撃を始めた。義景は十二日夜に退却を始めたが、十三日夜に江北の柳ケ瀬から敦賀郡刀根にいたる刀根坂で大敗し、兵力の大部分を失ってしまった(「小川文書」、『信長公記』巻六、「越州軍記」、「朝倉始末記」など)。そののち義景は敦賀から府中を経て一乗谷へと敗走し、大野郡司景鏡の勧めにより十六日には大野に退いて洞雲寺に入った。信長はあとを追って敦賀から府中に入り龍門寺に着陣した。そしてその軍勢を一乗谷に派遣して谷中を完全に破壊させた。一方義景は景鏡の誘いにより十九日に大野郡山田荘の六坊賢松寺へ移ったが、景鏡は義景を裏切り、義景は翌二十日そこで自尽して果てた(「小川文書」、「越州軍記」)。景鏡は信長方に降参して義景の首とその母・妻・男子である光徳院・少将・愛王の身柄を引き渡した。そののち光徳院と愛王は丹羽長秀により南条郡の帰の里で殺され(「越州軍記」)、五代一〇〇年にわたり越前に栄華を誇った朝倉氏の直系は完全に絶えた。 |