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 第四章 戦国大名の領国支配
   第二節 朝倉氏の領国支配
     五 朝倉氏の農民支配
      荘園支配
 朝倉氏の支配下においても、興福寺領坂井郡河口荘・坪江郷、近衛家領足羽郡宇坂荘、三条西家領大野郡田野村、祇園社領今立郡杉前三ケ村、内裏料所吉田郡河合(河北)荘などは、その納入額を別とすればともかくも荘園領主のもとに年貢が納入されていた。しかしその支配について河口荘・坪江郷を例に挙げると、毎年年貢収納使を現地に派遣するときに興福寺大乗院門跡の書状で朝倉氏当主に対し、今年の収納も「例年の如く堅く申し付けらるべく候」と懇願して初めて収納が可能であった(「経尋記」大永四年十月二十三日条)。永禄四年(一五六一)から同十二年までの河口荘の年貢収納状況を示す「河口荘勘定帳」によれば、年貢の過半は朝倉氏家臣・給人・寺庵が納入しており、朝倉氏に頼らなければ彼らから年貢を収納することはできなかったのである。
 しかし、朝倉氏といえども荘園領主や幕府の意向を全く無視することはできなかった。天文二十三年(一五五四)、杉前三ケ村における祇園社の代官である清暉軒は朝倉義景に代官職の安堵を願ったが、義景はこのことについては祇園社の意向もあろうから自分の一存では決められないと返事したという(資2 八坂神社文書三六号)。次に天文二十一年から翌二十二年にかけておこった興福寺僧尭顕と朝倉氏家臣杉若吉藤との相論をとりあげてみよう(資2 春日大社文書二〜一二号)。尭顕はこのとき河口荘新郷の代官であったが、この郷の本役米分七〇貫文余は尭顕より杉若に納入されることになっていた。他方で杉若は大永三年(一五二三)より坪江郷の政所職代官となっており(「経尋記」同年八月十三日条)、興福寺年貢の収納使でもあった尭顕に一〇〇貫文余を納入することになっていた。ところが尭顕が杉若に本役分を納入しなかったため、杉若は自分の収納分と納入分を差し引いて三〇貫余しか興福寺に渡さなかった。そのため興福寺学侶衆徒は朝倉義景に訴え、尭顕と杉若の相論となったのである。注目されるのは、このとき興福寺は将軍義晴にも訴えており、将軍より朝倉義景にこの紛争を究明し裁決を加えるよう「下知」がなされ、義景はこれに対し朝倉氏として審理し裁決すべきことを将軍に「御請」していることである。義景の裁決は杉若が七〇貫文余を興福寺に納入せよというもので、こうして荘園領主の年貢収納は続けられたのである。



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