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第三章 守護支配の展開
   第三節 室町幕府と国人
     二 奉公衆と室町幕府料所
      料所の機能とその支配
 料所の機能とその支配料所とは室町幕府の直轄地の一つであり、その機能には経済的な面と政治的な面がある。経済的な面では、幕府の年貢収取と直轄軍の維持を、政治的な面では、料所を預け置くことによって直轄軍把握の重要な役割を果たし、さらに、将軍権力を支える奉公衆と地方とを結ぶ紐帯としての役割をもったとされる。また料所の経済的な内容は、年貢の用途によって、衣服料のための「御服料所」、食料に充てる「供御料所」、厩舎の勤務員に支給するための「厩料所」、侍女に支給するための「行器料所」、奉公衆に対する配当などが知られている。なお、料所は守護の課す一国平均役を除かれるのが通例であったと考えられる。 

表36 越前の料所

表36 越前の料所


表37 若狭の料所

表37 若狭の料所

 料所について知られる限りでは、まず「室町幕府諸国料所方支証目録」が挙げられる(資2 内閣 諸国料所方支証目録一号)。ただしこれは、蜷川家ないしその主家たる伊勢家に関係ある料所の文書目録と推定されているように、料所の全貌を示すものではない。現在、諸国に散在した料所は約二〇〇か所余あると指摘されている。それを参考にまとめた越前・若狭に所在する料所は、表36・37のとおりである。また前述のように、「康正引付」において奉公衆や近習が段銭を京済している場合は、その所領が料所になっている可能性もあると考えられる。ここでは、若狭に所在する料所を通じてその支配や経営の様子をみることにする。
 寛正六年、大飯郡木津荘・遠敷郡富田郷は蜷川親元とその被官が代官に任命された(『親元日記』同年三月二十三日条)。蜷川親元のような人物はもとより、奉公衆は在京が原則であるから、預け置かれた料所は在地に代官が置かれて支配されるのが一般的であった。さらに、この両所の年貢等注文をみると、両所とも年貢の総計から国下行と御免物が引かれて残りが進納されている(資2 小野均所蔵文書一号)。この御免物は総年貢の約五分の一となっており、料所の代官職の給分であると考えられ、また、国下行は在地において実際に土地を支配管理している者の取り分と考えられている。
 また進納される年貢などは、遠敷郡安賀荘の場合、在地の代官熊谷勝直から取次の飯尾尭連を経て幕府の財政を司る御倉に納められている(『大館常興日記』天文九年三月八日条)。さらに御倉からの支出は、安賀荘の公用を例にとると「一分御台様、一分若公様御ふくかた、一分供御方、一分無足衆御配当」というように支出されている(同 天文九年九月二十九日条)。
 料所は地方にあって守護大名を牽制する奉公衆を中央に結びつける役割を果たしてきたが、若狭の場合には天文年間になると、在地の代官には、例えば前述の安賀荘は熊谷氏、遠敷郡宮川荘は粟屋左京亮などのように武田氏の被官が任じられている。さらに、宮川荘などは年貢未進の記載が頻繁にみられることや、その納入の督促を武田氏に依頼したり(同前)、また前述のように、本郷光泰が逐電するとその知行分について武田氏の意見をふまえて料所にしようとする動きがみられ、料所全般に対して武田氏の影響力が強まってくるのであり、料所が本来の役割を果たしたとは思えない状況がみられるようになる。



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