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第三章 守護支配の展開
   第二節 一色・武田氏の領国支配
     五 武田氏の領国支配組織
      武田氏の被官
 右にみたように、武田氏の権力中枢を担った重臣としては、粟屋・内藤・逸見・熊谷・山県・入江・山中・桑原・則光・市河などの諸氏がいた(妙守監寺・袮宜大夫の本姓は未詳)。これ以外にも、応仁の乱で活動した武田氏被官として、白井備中守(『私要鈔』応仁元年六月十三日条)・綿貫弾正左衛門(『山科家礼記』文明二年十二月十二日条)などの名が知られる。以上挙げた一二氏のうち則光・市河の二氏を除く一〇氏は、いずれも安芸出身の武士である。このうち熊谷氏は、すでに子の熊若丸(堅直)に本領安芸三入荘本庄分を譲っていた信直が若狭に来住し(『熊谷家文書』一一五号、資9明通寺文書五五号など)、その後も堅直の三男助三郎が系図で「若州味方(三方)熊谷号」と記されたり(『熊谷家文書』二五六号)、堅直の孫直春・直祥は一族と争って若狭に退去するなど(同前)、安芸・若狭両熊谷家は戦国期まで関係を保っていた。市河氏は南北朝期に一色氏のもとで活動した市河九郎入道がいる(『大徳寺文書』一五九号、『師守記』貞治六年七月二十五日条)。もし室町期の市河氏がこの九郎入道の子孫だとしたら、一色氏被官から武田氏被官に転身した数少ない武士の一人となる。ただ安芸でも、戦国期の毛利氏家臣や国人羽仁氏被官として市河氏の存在が知られるので(『毛利家文書』二八七・二九三号、羽仁君雄家文書一号『広島県史』古代・中世資料編・1955・など)、断定はできない。則光氏については関係史料を欠く。このほか戦国期にまで範囲を広げれば、安芸出身の武田氏被官としてさらに温科・久村・南部・福島・香川・武藤らの諸氏を挙げることができ、武田氏治政下の若狭はさながら安芸の武士に席巻された観すらある。こうしたなかで、一色氏の主だった被官らはほとんどが牢人とならざるをえず、前項でふれたように牢人一揆が繰り返しおきたのも当然のことであった。



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