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第三章 守護支配の展開
   第一節 斯波氏の領国支配
    三 越前の支配機構
      領国支配機構
 守護の権限を在地で実際に行使したのは、小守護代・郡代(郡司)と称された下部機構の者たちである。室町期の守護は京都に屋形を構えて将軍に近侍するのを原則とし、将軍の意思に反して下国することは謀叛を意味していた。特に斯波氏は三管領職としての高い家格をもち、越前・尾張・遠江三か国の守護職を兼帯し、常に在京していた。またその執事で越前・遠江守護代を兼務した甲斐氏も、おおむね在京していたと考えられる。そこで越前の在地支配のために、南条郡府中には小守護代、敦賀・大野両郡には郡代が置かれたのである。小守護代と郡代は郡を単位として並列的に設置されており、支配領域が重なることはなかったようである。
 府中の守護所に置かれて在地支配にあたった小守護代には二人の家臣が任命され、彼らは史料では「府中両人」ともよばれている。彼らは平安期以来の国衙在庁機構に系譜を引く者と推測され、戦国期の朝倉政権にも継承されていく。

表26 室町期越前の小守護代・郡代在職一覧

表26 室町期越前の小守護代・郡代在職一覧
 その在職の状況は表26のごとくになる。初期に現われる狩野・池田の両氏は本来在地性のある武士と考えられ、狩野氏は加賀国江沼郡の狩野氏の一族、池田氏は今立郡池田荘出身と推測される。ただし、応永二十七年甲斐将教の配下として狩野氏がみえるから(『老松堂日本行録』)、彼らは甲斐氏の信頼しうる部下であったと判断される。しかし、それでも池田勘解由左衛門尉に代わって守護代甲斐氏の一族四郎左衛門尉が登場してくることは、甲斐一族による小守護代機構の掌握と解すべきであろう。
 小守護代の職務としては、まず幕府・守護や寺社・本所の命令を在地に伝達して秩序を回復する強制執行の権限(使節遵行権)がある。例えば寛正四年(一四六三)十一月に興福寺領坂井郡細呂宜郷などに対する違乱を排除するよう命じた幕府の命令は、同月二十七日に守護代から小守護代の一井・平右馬両氏に伝達されているが、彼らは守護使を派遣してまもなく在地の違乱を排除したことであろう(『雑事記』同年十二月三日条)。また康正三年(一四五七)九月には興福寺一乗院が、堀江民部による長慶寺領への介入を停止させてほしいと小守護代に直接依頼しているが(『私要鈔』同年九月二十六日条)、これにも小守護代は守護使を派遣して強制執行を行なったと思われる。
 なおこれに関連して、小守護代が在地の関係者に広く周知を図った事例として、文安二年(一四四五)七月に小守護代両人が国中寺々御中に発した、東寺修造料奉加を求める廻文が注目される(ヌ函一三九・一四〇)。東寺からは大勧進宝栄が下向し、案内役として豊原寺円福院が同道して奉加を求めて回ったが(ヌ函一三八)、小守護代の発した廻文の効果もあって続々と修造料が寄付され、一口一〇〇文の基準を越えて多額の奉加銭を提供する僧も現われるにいたっている(ヌ函一四一など)。
 段銭・役夫工米や半済の徴収にあたるのも小守護代の職務であった。例えば、応永十二年十一月に守護代が小守護代に充てて河口・坪江荘に対する役夫工米の催促停止を命ずる遵行状を発したり(『雑事記』長禄四年五月二十六日条)、文安三年十月に同様に小守護代池田・一井氏に充てて今南東・今南西郡の紙座に対する諸役免除を伝達しているのは(資6 三田村士郎家文書三号)、いずれも小守護代が使節を派遣して賦課分を徴収していたことを示しており、それに対して免除の特例が指示されたものである。特に諸役とだけ記載された後者は、守護独自の権限で賦課された守護役である可能性が高い。応永十九年と同二十六年に興福寺が自己の荘園である河口荘から田楽頭段銭を徴収しようとしたとき、それを請け負ったのは甲斐氏であるとされているが(『雑事記』寛正二年十二月六日条)、こうした徴収機構を動かせる甲斐氏でなくては請負は困難であったと推測される。
写真139 甲斐常治書状(今立町歴史民俗資料館所蔵文書)

写真139 甲斐常治書状(今立町歴史民俗資料館所蔵文書)

 そのほか小守護代は、相論裁決および訴訟取次と現地確認などを行なった。例えば寛正六年五月に小守護代は、両浦(南条郡河野・今泉)と山内(丹生郡山干飯郷)に居住する馬借の相論に対して、府中向けの荷物は両浦・山内が半分ずつ、返り荷は両浦三分の二・山内三分の一の配分で運送すべしと裁決するとともに、馬借中に塩・榑の独占的営業を認めているのである(資6 宮川源右ヱ門家文書一号)。このように馬借などの相論は小守護代が第一審を裁決することもあったが、国人・寺社に関する裁判は最初から守護のもとへ訴えられたので、この場合には小守護代は訴訟文書の確認や取次を行なっている。例えば文安五年十月の丹生郡大谷寺と地頭千秋氏との所領相論では、小守護代は大谷寺寺僧申状案に裏判を据えて証拠能力を保証したり(資5 越知神社文書一九号)、翌六年には守護の裁決を大谷寺に取り次いでいるごとくである(同二一号)。また相論にはいたらなくとも、知行安堵にあたって不審が生じた場合には小守護代が現地確認を行なっている。例えば片山重信から真福寺に寄進される土地に関して、当知行地かどうかの確認が小守護代によって行なわれており、守護はその注進にもとづいて安堵している(資8 西福寺文書七二号)。



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