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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
     六 若狭の荘園
      田井保
写真129 若狭国惣田数帳案(ユ函一二、部分)

写真129 若狭国惣田数帳案(ユ函一二、部分)

 田井保は三方郡田井付近に成立した荘園で、文永二年の大田文に大炊寮領便補保の一つとして「即保十八町三反七十二歩、来田五丁 三方郷」とある(ユ函一二)。当初一八町余の田地が大炊寮領の便補保とされ、そののちに他の所領を割いて来田が加えられたものと思われる。成立時期は明らかでないが、一般的に便補保の成立は十一世紀中ごろから十三世紀初めのこととされており、当保もその例外ではないと思われる。南北朝期には当保領家職は局務中原氏が伝領しており、保の成立にはおそらく中原氏の祖先が深く関わっていたといわれている。なお大田文の朱注に、「地頭金子又太郎入道跡、多伊良小太郎跡伝(マゝ)領也」とある。地頭は武蔵七党の一つ村山党のなかの金子氏の一族ではないかと推定されており、その跡を伝領した多伊良小太郎とは、鎌倉期末から建武のころに遠敷郡松永保の地頭であった惟宗隆能のことと考えられる。
 降って南北朝期における当保の様相は、中原師守が遺した『師守記』によってうかがうことができる。貞和二年(一三四六)正月より、公文太夫房良成と石崎大進房円慶なる者が公文職をめぐって争っている。 その結果、「円慶、道尊子として申す所、其の謂無きに非ざるの由、面々一同おわんぬ」ということで、三月十日に円慶が父の道尊の由緒に任せて公文職を安堵されている。
 貞治元年の十一月二十九日条によると、当時この保に半済が行なわれていたことが知られるとともに、在国中の守護石橋和義が丹波発向を名目として一円管領を要求したことが知られる。続いて翌二年閏正月になると守護方は当保四分の一すなわち本来の半済分のほかに、なお残る領家収納分の半分を給主に付する処置に出ている。さらに同年四月二十日条には、守護一色範光の守護代小笠原長房が公文職を違乱したことがみえ、五月に入ると、公文職を守護代が闕所として没収しようとしたとある。同じころの太良荘の例からして、幕府に背いた先守護の斯波氏に公文が味方したとの理由を付けて没収しようとしたものであろう。しかしこのときは、六月八日に先公文円憲の舎弟の石崎大輔房道成が公文職に補せられ安堵料一〇貫文等を進納しているから、領家は公文職支配を保持することができた。円憲・道成の兄弟は、二〇年前に公文に補せられた円慶と同じく石崎という姓を称していることから円慶の子息もしくは一族と考えられ、当時公文職は在地有力者と目されるこの石崎氏によってほぼ世襲されるような形になっていたのであろう。
 『師守記』の記事にはまた、領家に対して田井保が進済した年貢・公事などの内容にふれた部分が少なくない。康永四年十月には年貢五〇石分というかなり多額の損免が認められたのをはじめ、翌々年の貞和三年に一〇石が、同五年には五〇石が免除された。一〇数年後の貞治三年九月三十日には、百姓自らが損亡を訴えるため上洛している。こうしてみると、かなりの頻度で年貢減免が必要なほどの損亡が生じていたようである。
 公事としては随時、多様な品目が登場する。まず毎年六月前後に和布が進納された。これは先納と後納の二度に 分けて納入される定めであったが、不作の年には代銭で納められる場合があった。量的には貞治三年七月四日条に「和布三十二帖納之」とあるのが最も多い。和布以外では、鮨(「鮒鮨」と記した箇所もある)・海松・飯色々・貝蚫(鮑)・藻・大豆・小角豆・尼鷺(わかさぎ)・鰹・荒巻・唐梨・上柴などがみえる。これらのなかには、公文などが「志」としてもたらしたものも若干含まれてはいるが、いずれにせよかなり多様で、特色としては海産物の多さが指摘できよう。三方湖に面し、かつ西へ山越えをすれば日本海岸の世久見浦や食見浦に出る位置にある当保の海村的性格の反映に他ならない。



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