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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第一節 建武新政と南北両朝の戦い
    五 藤島の戦いと南朝の反撃
      藤島の戦いと義貞の死
 金ケ崎城を奪還された幕府は、若狭守護の斯波家兼・近江守護の佐々木高氏(道誉)らを遣わして義貞軍攻撃にあてた。美濃国青野原から近江国内に転戦した朽木頼氏は、四月末に荒地(愛発)中山関から疋田にいたり、ついで金ケ崎城攻撃に加わっている(資2 内閣 朽木家古文書四号)。しかし城が落ちないばかりか越前国内の義貞軍の活動は活発化するばかりであったので、五月に幕府は土岐頼貞を越前に発向させて戦況の打開を試みたが(『熊谷家文書』)、あまり効果は挙がらなかった。しかも越後国の南朝方が再び動きだし、越中国守護井上俊清・加賀国守護富樫高家の軍を撃破して越前に迫っていたという(『太平記』巻二〇)。越後の池・風間以下の南朝方の動きはすでに前年四月には始まっており、越後の主だった幕府方の武士は在京しているという状況のなかで幕府もその対応に苦慮していたが(『市河文書』、『上杉家文書』)、越後勢と義貞軍が合体するとなれば、幕府軍のいっそうの苦戦は免れえぬところであった。
写真100 新田義貞墓所(丸岡町称念寺)

写真100 新田義貞墓所(丸岡町称念寺)

 ところが、幕府方に思わぬ朗報が舞い込んだ。新田義貞の戦死が伝えられたのである。『太平記』巻二〇によれば、風間ら越後勢が吉田郡河合に到着し、南朝方の軍事的優勢のなかで足利方に残された抵抗拠点である黒丸城など足羽郡の諸城への本格的な攻撃が開始されて間もない閏七月二日の夜のことである。その日の戦いで予想外の苦戦を強いられた藤島城の偵察にわずか五〇騎ばかりの兵を率いて出た義貞は、藤島城攻撃軍に夜襲をかけようと黒丸城を出た細川出羽守・鹿草(完草)彦太郎の軍勢と灯明寺畷で遭遇し、射手をもたぬ不利をつかれてまたたく間に義貞の従者は討たれ、従者の進言を拒否してその場にとどまった義貞も致命傷を負い、自害して果てたという。義貞の遺骸は時衆により吉田郡河合の往生院に運ばれ葬儀が営まれたが、首は京都に送られ獄門に懸けられた。
 義貞の突然の死は義貞軍に大きな動揺を与え、斯波高経の黒丸城に降参する者、逐電する者、あるいは往生院で出家する者が相ついだという(『太平記』巻二〇)。しかし金ケ崎城は依然として新田方の手にあったし、三国湊に畑時能、三峰城に河島惟頼、杣山城に瓜生一族が健在であって、優勢を誇りながらもにわかに戦死した義貞の課題はそのまま弟の脇屋義助に受け継がれ、府中の義助を中核として越前における新田方の活動がやむことはなかった。ただし、斯波高経から吉田郡藤島荘を与えられることを条件に南朝方を裏切った平泉寺衆徒が、藤島城を守備していたように、斯波方による新田方に対する切崩しも進行していた。



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