目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第一節 建武新政と南北両朝の戦い
    四 金ケ崎城の攻防
      金ケ崎落城
 金ケ崎城に篭もる義貞軍はじりじりと包囲網を狭めてくる幕府方の攻撃に耐えて、建武三年の冬を過ごした。しかし、明けて翌四年の元旦には城攻めの総大将高師泰が大軍を率いて敦賀に入り、諸国から集結した幕府方の軍は城下を埋め尽くした。幕府方の軍勢には、島津頼久に率いられた薩摩国の国人本田資兼・莫袮重貞ら、村上信貞に従軍して信濃・越後と転戦し北陸道を西上した市河親宗・経助ら、おそらくは塩冶高貞とともに敦賀入りした出雲国の国人諏訪部信恵らの姿もあった。城は完全に孤立したのである。
写真99 鉄製銀象嵌兜(伝新田義貞兜)

写真99 鉄製銀象嵌兜(伝新田義貞兜)

 正月十八日に最初の本格的な合戦があった。そして二月五日、義貞は篭城戦の不利を察して金ケ崎を脱出し、杣山城に入った。脇屋義助らがこれに従い、義顕と二人の皇子は金ケ崎城に残った。杣山城には、新田方に寝返り、斯波高経の軍を南条郡府中で破った瓜生保がいた。杣山城から攻撃をかけて金ケ崎城を包囲する足利方に打撃を与える以外に、金ケ崎城を救う方法はないと義貞は判断したのである。
 二月十六日、義貞・義助・保らは杣山城を出て敦賀をめざした。しかし、敦賀郡樫曲付近に要害を構えて待ち受けた幕府方にその行く手を阻まれ、激戦のすえ瓜生保は戦死し、義貞・義助らは杣山城に撤退を余儀なくされた。金ケ崎城に残る軍勢の期待もむなしく、孤立した城はさらに無援となった。『太平記』巻一八によれば、食糧に窮した城兵らはまず馬を食し、最後は死者の肉を食らって戦い続けたという。そして、三月三日からの最後の三日間は夜戦であった。飢餓と疲労に衰え果てた城兵は次つぎと討ち取られた。義顕と尊良は自害し、恒良は逃亡を試みたがまもなく幕府方に捕らえられ、のち毒殺された。ここに金ケ崎城は落城し、後醍醐が期待を寄せた反攻拠点の一つが失われた。



目次へ  前ページへ  次ページへ