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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第七節 中世前期の信仰と宗教
     二 道元と永平寺
      越前入居の要因
 道元が吉田郡志比荘に入居することになった最大の理由は、それまでに有力檀越となっていた波多野義重の所領が同所に存在したことによるものと考えられる。波多野氏は平安末期以降、多くの支族を出し、秦野盆地(神奈川県秦野市)から足柄平野へと進出し、松田・河村・大友・菖蒲・広沢など各地の地名を苗字とする諸流が活躍する状況になっていた。次に波多野氏が全国に拡散したのは、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を下して争った承久の乱(一二二一)が契機になっていて、関東の多くの御家人が乱の恩賞地を得て西遷していったが、波多野義重もこの時期に志比荘に移ったのではないかと考えられる。志比荘は、平安末期の承安三年(一一七三)に後白河天皇の女御の建春門院平滋子の本願によって創建された最勝光院領として立荘された荘園である。義重は承久の乱にさいしては惣領の波多野経朝に従って参戦し、右眼を失明している(『吾妻鏡』宝治元年十一月十六日条)。義重が承久の乱の新恩地として志比荘の地頭職を受けたことを明らかにする史料は存在しないが、道元を同荘に招き、のちに永平寺の大檀越となっていることや、義重の跡を嗣いだと考えられる子息の時光が「野尻」と号し越中国野尻(富山県福野町)を領していたことが知られることから、義重と時光は越中国野尻とともに志比荘の地頭職を受け継いでいったものと考えられる。これらのことから義重は、承久の乱による恩賞として越中国野尻とともに志比荘を受け、西遷していったと考えてよかろう。 
写真80 波多野義重木像

写真80 波多野義重木像

 承久の乱後に義重の名がみえる史料は、仁治三年十二月十七日に道元が六波羅蜜寺のそばにある義重の邸宅で説示した『正法眼蔵』(全機の巻)の奥書である。当時の義重は六波羅探題での任務に就いており、六波羅に屋敷を構えていたことが知られる。またそれ以降も、京都六波羅で活動していた(同 寛元四年正月十日条)。
 義重にとって、志比荘へ入宋僧を迎え、数年後に寺院(大仏寺、のちの永平寺)を建立したことは、自らの力を荘園内外に示すことになったものと思われる。西遷御家人が本貫地から神を勧請したり、新たに寺院を建立した例は多々あるが、波多野義重が道元を迎えて寺院を建立したのも、そのような面でとらえることができるのではなかろうか。
 道元が越前に入居することになった理由には、波多野義重の勧誘とともに、足羽郡波着寺から参入してきた懐鑑以下の達磨宗の人びとの勧めも存在したと考えられる。そのなかには義介のように、足羽川流域の稲津保の出身者もおり、越前の地理や状況に詳しい人びとがいたと思われる。波着寺の旧跡(福井市成願寺町)は「波着観音」と称され、登り口には「波着観音」の額を掲げた鳥居が建っている。志比荘は波着寺からさほど遠くない所にあった。波着寺は比叡山の末寺的存在であったと考えられるが、かつて達磨宗の人びとが拠りどころとした東山多武峰のように、往徨する天台宗の別所聖などが居住する場であったろう。
写真81 足羽郡波着寺跡(福井市成願寺町)

写真81 足羽郡波着寺跡(福井市成願寺町)

 さらに道元を越前に迎えるにあたっては、波多野義重とともに、後述するように今立郡に所領をもち京都に私宅をもっていて義重とも系図上でも連なると考えられる覚念の力もあったものと思われる。また道元から明全の舎利を受けた明智も、前述したように越前と密接な関係にあった人物であった。
 道元は、こうした諸関係を背景として越前に赴くことになったのである。ただ越前出発まで『正法眼蔵』の説示を続け、半月ばかりで越前に入り、入り次第すぐに同書の説示を開始しているところをみると、興聖寺破却事件の有無はともかくとして、越前入国はかなり計画的に以前から進められていたものと考えられる。なお計画性が考えられることから、興聖寺破却事件などは存在しなかったとする見解もある。



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