浦は農村と違って代銭納については独自の位置を占める。いうまでもなく、浦の主要な生産物である塩と魚(塩合魚)は販売を前提としているからである。ただし、荘園領主は最初から塩や魚について代銭納を求めたのではなく、建暦二年(一二一二)に敦賀郡気比社が越前の浦々から収納する海産物はすべて現物であったし(本章四節二参照)、寛元元年(一二四三)に遠敷郡須那浦の山預職を与えられた秦助武が納入したのも塩と御菜(魚介類)の現物であった(秦文書五号)。これらの負担はいずれも海産物を神に捧げる神饌の名残りをとどめている。
しかし鎌倉後期の弘安七年になると、遠敷郡多烏・汲部(釣姫)両浦はそれまで「塩代米」を納入していたが、悪米であり百姓も愁訴したので、今後は「俵別百文銭」で納入することとされているように代銭納に移行している(同二七号)。さらに永仁四年(一二九六)に鎌倉夫の負担を多烏浦内で分担したときには、すべて銭で徴収されている(同三七号)。浦人の間で銭の使用が普及していることは、鎌倉前半期には塩山が「小袖」で売買されていたものが(資8 大音正和家文書七号)、延慶三年(一三一〇)には「代参百文」で売買されていることからも知ることができる(秦文書五一号)。このような銭貨普及をふまえて、延慶四年に多烏・汲部両浦は地頭方の年貢・公事を合計四〇貫文で請け負うという、年貢の地下請を実現するのである(同五三〜五五号)。なお、若狭の浦では領主による「押入銭」収取が行なわれていたことが明らかにされている。御賀尾浦や遠敷郡志積浦の例によれば、これは地頭などが浦の百姓一人に米二升宛を貸し付け、一升につき銭六六文を徴収するものであった(資8 大音正和家文書五四号、資9 安倍伊右衛門家文書八号)。本来は米の不足する浦への飯米貸与であったかもしれないが、当時の和市が米一升六文から一四文であったから(資2 真珠庵文書五号、エ函三一)、これは銭貨獲得のための高利貸的収取に他ならなかった。 |