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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
    四 市場と銭貨流通
      浦の代銭納
 浦は農村と違って代銭納については独自の位置を占める。いうまでもなく、浦の主要な生産物である塩と魚(塩合魚)は販売を前提としているからである。ただし、荘園領主は最初から塩や魚について代銭納を求めたのではなく、建暦二年(一二一二)に敦賀郡気比社が越前の浦々から収納する海産物はすべて現物であったし(本章四節二参照)、寛元元年(一二四三)に遠敷郡須那浦の山預職を与えられた秦助武が納入したのも塩と御菜(魚介類)の現物であった(秦文書五号)。これらの負担はいずれも海産物を神に捧げる神饌の名残りをとどめている。
 しかし鎌倉後期の弘安七年になると、遠敷郡多烏・汲部(釣姫)両浦はそれまで「塩代米」を納入していたが、悪米であり百姓も愁訴したので、今後は「俵別百文銭」で納入することとされているように代銭納に移行している(同二七号)。さらに永仁四年(一二九六)に鎌倉夫の負担を多烏浦内で分担したときには、すべて銭で徴収されている(同三七号)。浦人の間で銭の使用が普及していることは、鎌倉前半期には塩山が「小袖」で売買されていたものが(資8 大音正和家文書七号)、延慶三年(一三一〇)には「代参百文」で売買されていることからも知ることができる(秦文書五一号)。このような銭貨普及をふまえて、延慶四年に多烏・汲部両浦は地頭方の年貢・公事を合計四〇貫文で請け負うという、年貢の地下請を実現するのである(同五三〜五五号)。なお、若狭の浦では領主による「押入銭」収取が行なわれていたことが明らかにされている。御賀尾浦や遠敷郡志積浦の例によれば、これは地頭などが浦の百姓一人に米二升宛を貸し付け、一升につき銭六六文を徴収するものであった(資8 大音正和家文書五四号、資9 安倍伊右衛門家文書八号)。本来は米の不足する浦への飯米貸与であったかもしれないが、当時の和市が米一升六文から一四文であったから(資2 真珠庵文書五号、エ函三一)、これは銭貨獲得のための高利貸的収取に他ならなかった。

表10 塩の和市

表10 塩の和市

 しかしこうした状況は、浦が商品経済に巻き込まれ、その規定を受けるようになることを意味する。この点を御賀尾浦についてみると、和布は古くは一帖を二五〇文換算で納めていたが、正和三年には浦刀の訴えにより一帖につき一〇〇文引き下げられている(資8 大音正和家文書二九号)。二年後には和布一〇帖が一貫文とあって、さらに値下げした額で納入がなされているが、逆にいえばこれは浦人の収入低下をもたらす和布値段の値下がりを示しており、このときに「浦衰弊」と百姓たちが嘆いているのはこうした状態を反映しているのであろう(同三三号)。先にも述べたように、「在鎌倉」によって銭貨納入を求める地頭に対して、海産物の値下がりのために銭貨を確保しがたくなった浦人たちは文保二年に和布・塩・鮨桶の代銭納廃止を要求しているが、地頭はこれまでも浦人の「高直訴訟」を「優免」してきたという理由でこれを拒否している(同三七号)。さらに塩の和市あるいは値段を示した表10によれば、越前まで廻船で運んだ塩は倍近くで売れるものの、通常の塩値段は下がり気味であることがわかる。その理由は全国的な視野に立って検討してみなければならないが、貨幣流通がただちに浦の「繁栄」をもたらすものでないことが推定され、商品経済の進展は長い目でみれば経済の不均等な発展をもたらし、浦の停滞をもたらす場合もあったと思われる。



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