このような商工民・芸能民さらには廻船人などの活発な動きのなかで、十四世紀になると、若狭・越前の海辺の津・泊や水上交通と陸上交通の接点の宿などには市が立ち、多様な職能民の集住する都市的な集落が形成され始めた。
若狭の税所今富名の小浜には、このころ富裕な借上の「浜の女房」とその子息石見房覚秀のような人びとが根拠を置くようになっている。覚秀母子は元亨元年(一三二一)太良荘助国名主正守らの未進米・銭を「くまのゝ御はつお(初穂)物」で立て替え、同名半名を手に入れ、さらに翌二年には同荘の薬師堂を修造し、その功によってこの堂の別当職にもなっている(ユ函三二、ヤ函一二)。このように小浜の住人覚秀は熊野三山僧(山伏)であり、「熊野上分物」「三山僧供料物」などを資本として金融活動を展開するとともに、その資金で修造事業も行ない、太良荘の名主として荘の現地にも強い影響力をもつようになった。そしてこのころ、小浜を守護所としたと思われる守護得宗の代官と結びつき、覚秀は太良荘地頭である得宗の給主代にもなったのである。
こうした借上をはじめ、小浜が問丸なども集住する都市として形をなしつつあったことは間違いないが、西津もまた同様であった。元徳四年三月の西津荘畠地検注目録によってみると、西津には政所屋敷が置かれ、津姫社・津寺があり、「中塩屋分」一町半三〇歩のほか、市屋形一段三〇〇歩、楼屋敷三六歩や、各一町計六町の百姓六名の屋敷がみられるので(資8 大音正和家文書四八号)、ここに市庭を中心に、楼・屋形などの並ぶ小都市的な景観を推測することは十分に可能であろう。
そしてこのような海辺の都市的な津・泊・浦・浜には、先の覚秀のような富裕な人びとが少からずいたのである。例えば正和五年に三方郡常神浦の刀 忠国と相論した忠国の異母妹で御賀尾浦刀 又次郎の妻となった乙王女は、父の前刀 国清(法名蓮昇)から、「フクマサリ」という名前の大船一艘に加えて銭貨七〇貫文・米一五〇石・五間屋一宇・山一所・材木・小袖六・女三人男二人の下人を譲られていた(同三四号)。乙王女の母は越前の人で、蓮昇の死後に忠国によって娘三人とともに若狭の家を追い出され、越前で蓮昇の家内の財物をめぐって忠国を訴え、忠国はいったん和与したにもかかわらず、若狭でまた新たな訴えをおこしたのである(同三四・三五号)。これは、越前と若狭の浦の人びとの婚姻関係の実態や国ごとの訴訟のあり方を知りうる興味深い事例であるが、ここでは蓮昇が一人の娘に譲った財物の驚くべき莫大さに注目する必要がある。蓮昇はこれ以上の財産を保持していたことは確実で、廻船をはじめとする海での活動を通じて蓮昇の得た富は、かくも豊かなものだったのである(本章六節三参照)。 |