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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第五節 得宗支配の進展
     二 霜月騒動と北条氏の進出
      若狭忠兼の失脚と得宗の進出
 正安三年、若狭国は女院(偉鑑門院か)の分国となった。太良荘のように荘園と公領の境界にあった所領は、分国主や知行国主の交替(代替り)にあたって必ず変動を受けたので、これより先の正応四年に坊城俊定が知行国主になったときにも目代は国検を実施し、太良荘に国使を入部させこれを国衙に顛倒しようとしたが、このときはそれが現実の事態になり、国衙の代官が荘に入ってきたのである。
 この事態に驚いた東寺供僧の訴えに応じて後宇多院は院宣を下し、太良荘は東寺に返付されたが(こ函二三)、この変動にともなう百姓たちの動向に対する東寺側の収拾も終らないうちに、若狭全体を揺るがす大きな事件がおこった。正安四年の七月から十月の間に、いかなる罪科によってか、若狭忠兼が所帯のすべてを没収され、その跡は得宗領とされたのである(ユ函二八)。幕府の成立当初から若狭全体に大きな勢威をふるい、かなり衰えたとはいえ、なお若狭最大の勢力だった島津氏の流れをくむ若狭氏は、ここでほぼ決定的な打撃を受けた。
 これに代わったのが得宗で、すでに所領としていた守護領の今富名・西津荘・佐分郷に加えて、忠兼跡の太良荘・恒枝保・永富保、それにおそらく富田郷・東郷・秋里名・織手名・鳥羽上保・鳥羽下保・鳥羽荘・瓜生荘・吉田荘など、一四か所といわれる所領と、さらに伊賀氏の所領であったとみられる国富荘が、このころまでに得宗領となった。すでに得宗の相伝となっていた税所の沙汰する光里名・時永名・恒貞浦・友次浦・賀尾浦・阿納浦・志積浦・能登浦・馬瀬竹波もこれに加えることができるので、得宗はここに若狭の中心部である遠敷郡の圧倒的な部分を支配下に入れ、三方郡・大飯郡にも若干の所領を保持し、さらに国領の浦々のほとんどに加えて、今富名の小浜、西津荘の西津、多烏浦、汲部浦など、若狭の海上交通の要衝を押さえることになった(ユ函一二など)。
写真49 遠敷郡多烏浦

写真49 遠敷郡多烏浦

 そして、関東から派遣された得宗の検注使高市道森房義円が太良荘・恒枝保・永富保などについて実施した検注を太良荘に即してみると、義円は国衙の大田文・畠文の田畠数のとおりに、領家方の定田畠数を定める方針で検注を進めたと思われる。その結果、太良荘では地頭方の田畠が増加し地頭が莫大な得分を手中にしたのに対し、領家方の田畠は減り、年貢・地子ともに減少し、永富保でも若干の公田畠、預所給田・土居、定使給田などが地頭の支配下に入った。そのうえ、いずれの荘・保でも地頭得宗の給主(代官)が所務を掌握し下地を進止して、百姓名の名主職補任権を手中にしたのである。恒枝保で国御家人椙若氏の流れをくむ恒枝(清水)五郎信康が公文職を御内人に奪われたのは(ゑ函二七)、得宗給主がその権限を行使した結果であった。太良荘の給主は当初は伊予局(竹向殿)で給主代は黒須小次郎であったが、嘉元二年(一三〇四)までに太良荘・永富保などの給主は工藤六郎左衛門尉貞景となり、同じころ恒枝保・富田郷などの給主は塩飽右近入道道法で、給主代は近江国住人の播磨田左近入道であった(ミ函一五)。
 翌三年、得宗の内管領として侍所所司ともなり執権師時に対抗して権威をふるっていた北条宗方が貞時・師時によって誅殺され、若狭の守護は大仏宣時、その代官は渋谷十郎宗重となった。渋谷氏も時宗以来、若狭との関わりを保ち続けているが、延慶二年(一三〇九)に若狭は再び得宗貞時の分国に復し、すでに正安三年に父杲禅のあとを受けて今富名の代官となっていた工藤二郎左衛門尉貞祐が守護代になっている(「守護職次第」)。先の貞景は貞祐の兄弟であろうが、このように工藤氏一門をはじめ渋谷氏・渋谷小馬氏などの渋谷氏一門や、さらに塩飽氏など、得宗御内人は若狭において圧倒的な力をふるうにいたった。
 これに対し越前においては、先の山本荘が得宗領であり、鎌倉初期に北条時政が地頭となった丹生郡大蔵荘・南条郡池田荘・大野郡牛原荘などが北条氏所領であった可能性がある。とはいえ、北条義時が地頭であったことの知られる大野郡泉荘三ケ郷の地頭は鎌倉後期には藤原長継であり、同じく大野郡小山荘の地頭は八田氏の流れをくむ伊自良氏で、北条氏のこの国での勢力の伸張は、若狭ほどは顕著でなかったとみてよかろう。ただ、正嘉二年(一二五八)に北条時広が越前守になったのを初例として、徳治元年(一三〇六)の貞房、さらに江馬・伊具・佐介・塩田・名越など、北条氏一門のなかには越前守の官途をもつ者が多い。これは越前の国衙の支配に、少なくとも鎌倉後期には北条氏が何らかの影響を及ぼしたことを示しているとみてよかろう。



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