足羽郡は平安末期までに北部が分かれて新たに吉田郡が成立し、のちに足羽郡自体も足羽南・足羽北の二郡に分化した。足羽南郡は足羽川の中下流域でその用水系に属し、足羽北郡は足羽南郡の西側に位置する。足羽郡から吉田郡・坂井郡にかけて、平安末期から鎌倉初期に河合斎藤系・疋田斎藤系の諸氏が成長した。
足羽南郡には多くの荘・保が成立したが、足羽川中流部から平野に流れだすところにかけて展開した山間荘園宇坂荘は比較的古い荘園である。高陽院領であることが確認され(『兵範記』仁平三年秋巻裏文書)、のち近衛家領となる。荘域は、現在の美山町小宇坂・境寺から福井市の安波賀町・前波町・高尾町にいたる。鎌倉初期に地頭が置かれ、承久の乱のとき預所は後鳥羽上皇の乳母藤原兼子(卿二位)だった。乱後に地頭はこのことを幕府へ上申して地頭の沙汰として年貢を納入し荘務を行なったという。寛喜元年八月に兼子が没すると近衛基通は宇坂荘の回復を図り、同三年六月幕府から預所方の荘務権が認められた。しかし地頭の非法は続き、寛元四年以前には在地で狼藉事件がおこり百姓が遠流に処されている(資2 尊経閣文庫所蔵文書二〜四号、保阪潤治氏所蔵文書一号)。そののち検注が実施され地頭請所となった。
南北朝期になると貞治五年(一三六六)十一月に足利義詮は、越前朝倉氏の祖広景に宇坂荘をはじめ棗荘(旧坂井郡棗村)・東郷荘・坂南本郷・河南下郷・木部島(旧坂井郡木部村のうち)・中野郷の計七か所の荘郷地頭職を恩賞として与えた。これらの所領は足羽郡から吉田郡と、坂井郡の南部に分布しており、その後の朝倉氏発展の基盤になった。朝倉氏の根拠地となる一乗谷もこの宇坂荘に属している(五章三節三参照)。
宇坂荘の西隣りの安原荘(福井市安原町)は、河合斎藤系の安原実利・同十郎実親父子の苗字の地だった。実利は崇徳院武者所に勤め、実親は承久の乱で京方に属し斬殺されたという(『尊卑分脈』)。そして安原氏は没落したらしいが、当地は鎌倉中期ごろ前述の今立郡大屋荘を知行した惟宗行経のものになっている。鎌倉末期には後伏見院領として安原荘が立荘されたが、大覚寺統の後醍醐による新政が行なわれるようになると後醍醐は持明院統の当荘の人事に介入して問題をおこした(『花園院宸記』正中二年七月三日条裏書)。 安原荘の隣りの東郷荘(福井市東郷二ケ町付近)には、承久三年(一二二一)五月十三日付で島津忠久が地頭に補任された(『島津家文書』)。荘園領主に関しては、建長二年(一二五〇)に九条道家から一条実経に譲られており一条家領となる(資2 宮内庁書陵部 九条家文書一号)。稲津荘(福井市稲津町)は鎌倉初期の文書にみえ(資2 補遺 醍醐寺文書一〜三号)、成立は平安末期にさかのぼる。白河法皇が夭折した娘である郁芳門院のために建立した六条院の荘園に編成され、鎌倉後期には室町院が管領した(資2 集一号)。河合斎藤系の稲津氏の苗字の地で、稲津氏は鎌倉前期にも存続し、御家人波多野氏と姻戚関係をもち栄えた(『尊卑分脈』)。同名の国衙領稲津保には、建暦二年(一二一二)に小国頼継が地頭に補任された(『吾妻鏡』同年正月十一日条)。稲津保と六条保(福井市上六条町・下六条町)は国衙領の便補保で、官御祈願所の月充米五〇石余を負担している(「門葉記」、資2 東山御文庫記録七号)。 |