ここで惟光の家地を差し押さえた借上は醍醐寺と関係ある人と推測されるが、この時期借上をもっぱら行なう人びとの多くは、延暦寺の山僧をはじめとする下級の僧侶、熊野などの山伏、それに神人であった。
なかでも日吉神人は十二世紀に入るころ、大津を根拠に西は瀬戸内海から九州、北は琵琶湖から北陸道諸国にいたる広域的な組織をもち、「日吉上分米」の借上や廻船の活動を営んでおり、若狭・越前にもその集団が組織されていた。
若狭では建永二年、三方郡御賀尾浦(三方町神子)の刀 とみられる加茂安守が、日吉社左方御供所により「四月未日御供神人職」に補任されているが(資8 大音正和家文書三号)、越前でも建暦三年三月、大津神人の出挙の呵責について、前年の「制符」(公家新制)にもとづいてこれを停止した守護代重頼に対し、衆徒たちが五月四日に「神人解職」を不当とし、客人宮の神輿を中堂に振り上げるにいたっている(「天台座主記」)。
また、同じく越前の日吉十禅師神人の末正が守護代によって所持物を追捕されたことについて、別当尭快が守護大内惟義に充ててその狼藉停止を求めた衆議を伝えたのもこのころのことで(資2 醍醐寺文書一三号)、神人と守護代とはこのようにしばしば衝突することがあったのである。
しかし反面、神人が大番役を守護から催促されることもあった。建保二年四月二十五日、中原政康は解状を守護所に進め、自分は先祖以来「兵の氏」ではなく「弓箭の道」を永く絶っており、敦賀郡に居住して日吉神人であるとともに、「気比大菩薩神奴」(気比神人)を兼ねた養父の跡を継いですでに四〇年も当郡に居住しているが、大番役を勤めたことはないと強調し、所労が滅気しない状況でもあるので催促を止めてほしいと訴えている(同一〇号)。 |