目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第一節 院政期の越前・若狭
    二 在地諸勢力
      平泉寺の内部組織
 平泉寺の組織についてはよくわからないが、同じく延暦寺末となった加賀白山宮では、内部は寺家と社家からなり、両者を統轄し白山宮全体の運営をはかる機関として政所があった。それを構成しているのが惣長吏・院主・大勧進・大先達・修理別当・上座・寺主・都維那・神主・大宮司である。惣長吏から大先達までが貫主とよばれる。惣長吏は加賀馬場全体の形式上の統轄者で、白山宮の長吏がこれを兼ねた。長吏(惣長吏)・大先達はほぼ世襲化されており、長吏の一族中より延暦寺が補任した。
 修理別当から都維那までは寺家の代表者で、彼らは白山宮政所の構成員であるとともに寺家の政所を構成していた。寺家政所は構成員からみると延暦寺の政所と同一の形態をとっており、延暦寺末になることによってこのような組織が整備されたと想定されている。
 平泉寺も白山宮同様の内部構成をなしていたに違いない。そして当時の本末関係は近世のような宗派としてのそれではなく荘園制的な支配関係であったから、延暦寺から別当が派遣され、長吏以下を補任し、寺家政所を配下に収めて所定の上納物も収取していたのであろう。ただし、この本末関係の形成が住僧らの覚宗への反発に端を発している以上、延暦寺=別当の支配は恣意的・一方的なものではなく、政所人事や山内・所領に対する平泉寺側の自律的運営を承認するうえに成り立っていたと考えられる。
 それでも、ときに本寺と末寺の間に鋭い緊張が生ずることは避けられない。具体的な内容は未詳だが、嘉応二年(一一七〇)には別当光明が住僧らを殺害した罪により阿波に配流されている(資1 「百練抄」同年閏四月三日条、『玉葉』同年閏四月十六日条)。
 平泉寺僧徒のことについては、別に長寛元年(一一六三)十一月の官宣旨案中に、1近隣の牛原荘に平泉寺僧徒が住して荘園領主醍醐寺円光院の課する諸役を忌避する、2平泉寺に篭もる夜討強盗の輩が牛原荘をひどい目にあわせるとある(資1 「醍醐雑事記」巻一二)。これも詳細を知りえないのだが、満山大衆の強訴や悪僧化が頻発していた中央諸寺院同様、住僧の統制に手を焼いていた様相が読み取れる。



目次へ  前ページへ  次ページへ