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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第一節 院政期の越前・若狭
    一 越前・若狭と平氏
      平氏と越前・若狭
平清盛の祖父にあたる正盛は、無名の隠岐国守に過ぎなかったが、永長二年(一〇九七)六条院御堂(白河院の亡き愛娘子内親王の菩提所)に二〇町余の所領を寄進した。これで愛憎激しい最高権力者白河院の心をつかんだ彼は、やがて隠岐からはるかに温国の若狭国守に抜擢された。平氏と越前・若狭の関係のはじまりである。
図2 平氏略系図

図2 平氏略系図

 正盛は白河院の引立てで若狭守を重任し、さらに六か国の受領を歴任し、後継たる忠盛も保安元年(一一二〇)越前守となった。彼の越前守は二期通算八年の長きに及ぶ。この期間中の特記すべきこととして、保安四年の強訴事件が挙げられよう。同年五月、越前国敦賀郡で刃傷沙汰から人が殺される事件が発生した。忠盛は犯人を召し取り検非違使庁に引き渡すが、日吉神人であったらしく、これに不満の天台の悪僧らが京都移送中の犯人を奪取する挙にでた。朝廷が延暦寺に張本の悪僧を禁固させると、大衆らはいよいよ怒って蜂起する。七月十五日になると大衆らは日吉三社の神輿を先頭に西坂本に下向し、このときは阻止されたが、十八日新たに日吉四社の神輿を加えて再度下向して、武士との間に合戦がおこった。この結果多数の死傷者が出て、僧徒は神輿を京都の鴨河原に捨てて遁走した。一方、別動の大衆三〇〇人が祇園に篭もり、神輿を担ぎ出そうとしたので、忠盛と左衛門尉源為義が派遣され、合戦で多くの命が失われている。
 事件にあたり、白河法皇も珍しく毅然たる態度をとり、衆徒の要求をのむことがなかった。当時の状況下では、その姿勢いかんによっては、国守忠盛が越前国における神人追捕の責任を問われることもありえたわけで、院の判断が注目される。



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