鎌倉幕府は十三世紀末ごろに、次第に増加しつつあった禅宗寺院を統制するために、中国で行なわれていた五山官寺制度を取り入れている。しかし実際にその機能が整えられるのは南北朝の内乱期を経て室町期になってからであった。五山官寺制度は、全国のいわゆる五山派に属する寺院を五山—十刹—諸山の位次に組織することであり、その寺院への住持辞令ともいうべき公帖は将軍から発せられることになっていた(関東以東の諸山寺院の住持には関東公方から発せられた)。なお五山の上である南禅寺と京都五山第一の天竜寺に対しては公帖に加えて朝廷より綸旨が出され、紫衣被着が許可された。
越前・若狭においても、五山制度が整うなかで京都・鎌倉の五山寺院から進出してきて、寺院を建立する禅僧が現われるようになってくる。
まず、越前・若狭の五山寺院についてみておこう。越前では足羽郡弘祥寺・南条郡妙法寺の二か寺が十刹、今立郡の日円寺・善応寺と永徳寺(所在地未詳)が諸山、若狭では高成寺と安養寺が諸山に列せられていた。これらの寺院を開いた禅僧たちは、京都・鎌倉から越前・若狭に進出してきた人びとであった。