5 若越の国造たち(2) | ||
つぎに越前に移ると、角鹿国造は吉備臣の祖の若武彦命の孫を国造にしたと伝えられますが、『日本書紀』には景行天皇の時に吉備武彦が、まだ天皇の支配に従わない越国の地形と国情を偵察するために、日本武尊によって派遣されたという伝承があります。「国造本紀」の伝承との関連がうかがえます。角鹿は敦賀の古い書き方であり、角鹿国造はそこの首長の角鹿(敦賀)直、あるいはその一族の角鹿海直だと考えられます。その墳墓は向出山古墳を中心とする敦賀古墳群でしょう。 三国国造は三国君(公)でしょう。「国造本紀」は宗我(蘇我)臣との同族関係を伝えますが、『日本書紀』 では継体天皇の子椀子皇子が三国公の祖です。これは継体擁立に三国氏が参加したことを背景にできた伝承で、おそらく蘇我氏との関係よりも新しく成立したものでしょう。三国氏の墳墓は金津町の横山古墳群とみられます。 さて最後に高志国造は、阿閉臣の祖の子孫を定めたと伝えますが、『日本書紀』は孝元天皇の子大彦命が、阿閉臣や越国造など七氏の祖であるとしており、阿閉氏との同族関係は共通します。この国造を越後に考える説もありますが、やはり越前の国造と考えてよいでしょう。しかしそれが何氏かはよくわかりません。丹生郡の佐味氏であると考える説のほか、松岡町の手繰ケ城山古墳・泰遠寺山古墳・二本松山古墳などの大型前方後円墳の被葬者にあてる説もあります。 若越をふくめ北陸の国造の多くは、沿海部に置かれています。それはそこに多い潟湖を拠点にして行われた、ヤマト王権の進出過程を物語っていると考えられます。 |
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![]() 司となったかつての国造の末 裔たち (右)三国真人、(左)角鹿綱手 の名がみえる。 複製 国立歴史民俗博物館蔵 (原品 宮内庁正倉院事務所蔵) |