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『福井県史』通史編2 中世 目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第七節 中世前期の信仰と宗教
     二 道元と永
      義雲の中興と寂円派
 三代相論などで永寺はかなり疲弊していたようである。このような状況のなか、大野郡宝慶寺から五世として入院したのが義雲であった。義雲は道元を慕って宋国より渡来してきて懐奘に嗣法し宝慶寺を開いた寂円の門弟で、弘安二年ごろに懐奘に助力して『正法眼蔵』を書写していた人物である。正和三年(一三一四)十二月二日に永寺に入っている。
 義雲は宝慶寺から什物などを持参したりして伽藍の整備を行ない、永寺の復興に全力を挙げている。嘉暦二年(一三二七)八月四日には梵鐘を鋳造している。入院してから一三年が経過していた。梵鐘の鋳造は諸堂の復興がほぼ完了したことを意味するのではなかろうか。
 このように義雲は伽藍の復興に尽力したが、宗旨に関する面でもその立直しを行なっている。六十巻本『正法眼蔵』(実際は五九巻であるが行持巻が上・下に分けられている)は義雲の編集によるものといわれており、嘉暦四年五月には六十巻の各巻の題目の下に着語を付し、各巻の大意を七言四句の偈(宗教的な内容をもった漢詩文)で表現した「正法眼蔵品目頌」を撰述している。
 先述したように、義介を永寺の中興とよんだ時期があったようであるが、義雲以降は彼を称するのが一般的となった。義雲が入寺して以降、関東より入った門鶴が慶長三年(一五九八)に二十四世になるまで、永寺住持はいずれも宝慶寺から入ることになっていった。すなわち寂円派の人びとによって永寺住持職は務められていったのである。義雲が正慶二年(一三三三)十月十二日に寂したのちに住持となったのは、門弟の曇希という人物であった。



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