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『福井県史』通史編2 中世 目次へ  前ページへ  次ページへ


第三章 守護支配の展開
   第四節 荘園の変質と一揆
    一 室町期の荘園
      主得分
 主は古くから一定の得分を有していたが、室町期になるとそうした得分が確定するとともに、しばしば荘園領主に納入する年貢(これを本年貢・公方年貢・本役米などという)よりも主得分のほうが多くなった。当時は中間得分を一般に「地利得分」と称したので(資5 越知神社文書一二号、は函一六五)、主の得分も「主の地利」と表現されている(資8 西福寺文書一一九号)。そうした主の地利の一例として表39に坂井郡竜沢寺が主であった坪江下郷油免宗重の場合を示した。これによると、本来は主が作人から収納する分米は一段あたり平均八・四斗であったが、長禄二年(一四五八)には平均一・四石に増大し、他方で竜沢寺が主としてこのから領主に納入する年貢はわずかに二・九石であったから、結局竜沢寺は田地について二八石余の主地利を得ることになる。ただし、これは竜沢寺に対する優遇措置とも考えられるので、より一般的な主地利として同じ坪江郷の例を表40に挙げる。この例によれば田地について収納が予想される額の五四パーセントを支出(年貢納入および下行)し、残りは主地利となるのである。

表39 坂井郡坪江下郷油免宗重の年貢と公事

表39 坂井郡坪江下郷油免宗重名の年貢と公事



表40 寛正元年の坂井郡坪江下郷二半の分米と納入分

表40 寛正元年の坂井郡坪江下郷二名半の分米と納入分
 戦国期になると主地利は「内徳」「内得」と記されるようになる。例えば永正七年(一五一〇)、敦賀郡島郷徳円では本役・御代官雑米・公事免・代給の計四〇・六二石を支出しても一四・五石の内徳があり(資8 西福寺文書一六六号)、享禄二年(一五二九)丹生郡下河去村五郎丸では、本役米一七石余を納入したのちになお一八石の内徳があるとされている(資5 越知神社文書四〇号)。
 主地利や内徳がどのようにして形成されるのかは、具体的に明らかでない。しかしおおまかにいえば、一方で荘園領主への納入分が固定化され、他方で主が作人から収納する分米を増加させたからであるといえよう。荘園領主納入分固定化の例としては、応安元年に一九・二石とされている太良荘保一色の年貢高が二〇〇年近くのちの天文二十年(一五五一)の指出においても「拾九石二斗ハ保一色之本役」とされている例を挙げることができる(オ函四九、資9 高鳥甚兵衛家文書一七号)。また主が作人より段あたり一・四石〜一・五石の分米を収納していたことは表39の宗重の例のほか、戦国期には一般的にみられることである。
 ただし、右にみた内徳は田地についての差引き計算のみの額であって、主は本役米のほか公事・夫役・段銭を負担しなければならなかったから、全体の収支計算を行なうと得分はかなり減少する。しかしそれでもこうした主得分を荘園領主は吸収することができなかったのであり、この主得分はやがて戦国大領国発展の経済的基礎をなしていくのである(四章二節五参照)。越前守護代甲斐氏が永享十一年に河口荘のを落とし取って家臣に知行させたというのは、大側の主地利獲得の動きとして理解されよう(『雑事記』長禄二年十月二十日条)。



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