こうして室町期には個々の荘民の利害よりも「御百姓等」全体の利害が集団で主張され、それも負担年貢額の減免と代官排斥の要求を中心とするようになる。年貢減免要求の中心をなすのは損免要求である。この損免要求には恒常的な荒田・河成・不作などの地の年貢減免を求めるものと、その年々の水損・干損・虫害・獣害などによる損毛分の年貢減免を求めるものがある。こうした損免要求は荘園の成立とともにみられることであるが、室町期の特質としては次のような点が挙げられよう。まず熟田にもかかわらず年貢を低くしているため、これまで損免が行なわれなかったとされる坪江上郷においても応永二十二年に荘民が損免の要求をしているように(『私要鈔』同年十一月四日条)、損免要求が広くみられるようになった。これはおそらく開発地が干水損を受けやすい地にまで広がったことが背景にあるものと思われる。
太良荘の例から知られるところでは、河成・不作が減らず固定化していく。これは実際に河成・不作が回復しなかったためではなく、荘民がこの減免分を既得権として譲らなかったためであり、代官もそれを認めるほうが納入年貢が少なくてすんだからである。