16 福井の米騒動(2) | |
わずか10数人の若者が、足羽河原に納涼にでていた市民を寺の鐘を鳴らしてせん動すると、騒動が始まり、数千人とも1万人ともいわれる市民が米穀商だけでなく知事官舎や警察署などを襲撃しました。市内は無政府状態の大混乱となり、翌14日午前4時ごろ鯖江歩兵第36連隊が投入され、ようやく騒動は鎮圧されました。 福井市の米騒動で年末には29人が懲役刑となりましたが、その服役当日のありさまは多数の親戚や町内のものが付き添い、軍隊への入営より盛大なものであったといわれています。騒動自体は自然発生的なものでしたが、福井市民が服役者に寄せる「大正の佐倉惣五郎」といった共感のなかに、富の分配の不公平に対する鋭い批判が込められていました。 この米騒動を契機に、社会事業行政が積極的にすすめられるとともに、労働運動、農民運動、水平運動などの無産運動が本格化していきます。 |
![]() ▲福井市の中央部(1935年) 左手を流れるのが足羽川。米騒動の群衆は、幸橋北詰めの派出所を押し倒 したあとで、二手に分かれ、一方は福井駅近辺から志比口方面の米穀商・機 業家を襲い、他方は、呉服町方面に向かい、米穀商に加えて福井警察署・知 事官舎を襲った。 『福井市鳥瞰図』 福井県立博物館蔵 |
![]() ▲幸橋(絵はがき) 足羽河原に納涼に出かけていた福井市民は、若者の演説 と善福寺の鐘の乱打をきっかけにいっせいにこの橋を渡り、 米価高騰への不満を爆発させた。 福井県立博物館蔵 |
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![]() ![]() 労働同志会は1925年(大正14)に福井県最初の本格的労働団体とし て結成された。医師や弁護士が後援し、当初、労資協調路線をとって いた同会は、30年(昭和5)第6回大会で資本家階級との闘争を全面に かかげた。昭和恐慌期下では県下3大争議(森田村辻久争議、春江村 西庄争議、岡本村製紙工場争議)を指導するとともに、翌31年には福 井県で最初のメーデーを挙行した。 『歩み続けて五十年』 |