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『福井県史』通史編1 原始・古代 目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 若越地域の形成
   第一節 古墳は語る
    一 前方後円(方)墳の出現と社会
      古墳出現の前夜—弥生墳丘の発展—
 墳丘をもつ墳は、越前では福井市南部の太田山二号(約二三×一七×高さ二・六メートル)、同一号(約一八・七×一三・二×高さ三メートル)が最も古く弥生時代中期中葉までさかのぼる(写真28)。いずれも山上に築かれた台状(山や丘の上に造り壙の周囲を削り出し、その上に土を盛った)で、墳丘中央に壙をただ一つ築き、その中に箱形木棺を埋置している。後者には副葬品はなかったが、前者からは多量の朱とともに細身の管玉五〇一個が出土している。管玉は、遺骸の頚部の左右から二五〇個、二五一個とまとまって出土し、みずらを結った紐に連なっていたものと解釈され、被葬者は男性と想定されている。ただ、単次葬である点で近畿地方の複次葬のものと異なっている。なお、同地域では、同時期の方形周溝壙の周囲を方形の溝で囲い、土をわずかに盛った)や土壙(遺骸を入れるほどの穴を掘って造った)が、平地の糞置遺跡・莇生田遺跡(福井市)で検出されており、当時すでにそれらのの造り方から方形台状・方形周溝・土壙の三種の制があり、規模の大きい方形台状や方形周溝の被葬者が地域首長、規模の小さい方形台状や方形周溝の被葬者が有力家長、土壙の被葬者が一般民衆と考えられている。これらのからは近畿地方の影響を受けた櫛描文様の弥生土器が供献土器として出土していることから、これらの制が近畿地方との交流のなかで出現したことがわかる。
写真28 太田山1・2号墓

写真28 太田山1・2号

 後期前半のものとしては、福井市南部に不整形な前方後方墳型墳丘である安保山四号(全長二四メートル、高さ一・三メートル)がある。後方部中央の壙内には箱形木棺が埋置されていたが、副葬品はなかった。墳裾や壙内より多数の供献土器が出土し、それらの土器のなかには近江系の土器も混在し、近江地方との交流がうかがえる。ただ、不整形である点が、近江地方の整った形のものと異なっている。
 清水町南部では、出雲を中心に日本海沿岸にみられる四隅突出型墳丘である小羽山三〇号(突出部三三×二七・五×高さ二・七メートル)がある(図15)。墳丘中央の壙内に日本最大の組合式箱形木棺が埋置され、棺内には碧玉製管玉一〇三、ガラス製管玉一〇、同勾玉一、鉄剣一が少量の朱とともに副葬されていた。このほか、四隅突出型墳丘は加賀で一基、越中で二基発見されているが、いずれも墳裾周囲に葺石を施さない点で出雲のそれとは異なっている。いずれも被葬者は地域の首長であろう。
 鯖江市中央部では、王山三号(方形周溝、約一〇×一〇×高さ一・五メートル)があり、墳丘中央に土壙があったが副葬品はなかった。周溝内からは尾張系のパレススタイル(宮廷)土器も出土している。これより若干さかのぼる同一号の周溝内からは近江系土器も出土している。
 大野市北部では山ケ鼻五号(方形台状、約一五×一三×高さ二・八メートル)があり、墳丘中央に土壙があったが副葬品はなかった。供献土器のなかに尾張系の土器が出土している。
 この時期は、首長級のに玉類がみられるくらいで、ほかのものには副葬品がまったくみられない。県内各地域が、出雲・近江・尾張などの地方と交流があり、方形墳丘を中心としながらも各種の墳丘が築かれたことがうかがえる。そして、それらには越前の特色もみられるのである。
 後期後半になると、福井市北東部から松岡町では、原目山一号(福井市、方形周溝、約二〇×二〇×高さ四メートル)からは、壙内に舟形木棺とその棺内から素環頭太刀一、鉄刀一、鉄片一、細身管玉三二三、ガラス小玉七二八が出土している。また乃木山(松岡町、方形台状、約三四×二四×高さ四メートル)は、中央壙(一号埋葬施設)内に木槨をもち、その中に箱形木棺を埋置し、棺内からは日本最古の木製枕のほか、鉄刀一、素環頭鉄剣一が出土している。二号埋葬施設は舟形木棺で、その棺内から鉄刀三(そのうち一つは素環頭鉄刀)、棺外から鉄刀一、鉄一が出土している。三号埋葬施設は舟形木棺と推定されているが、盗掘されており副葬品はなかった。いずれも地域の首長であろう。また、いずれにも土器が供献されているが、越前・加賀に中心をおく月影式土器である。
 若狭では向山遺跡(上中町)の不整形な楕円状の形をした向山(台状、約二〇×一〇×高さ二メートル)が確認されているのみである。墳丘中央に四基、縁辺に四基の土壙が検出され、上の供献土器として多量の後期後半の弥生土器(一部土師器を含む)と三個体以上の鉄剣が出土している。台状の中央部の被葬者と縁辺部の被葬者との差異は明確でないが、集落のある平地を離れた山上に域が移動していることに注意すべきで、地域の首長級の墳と考えられる。
 この時期の首長には、玉類のほかに、あらたに武器(鉄刀・鉄剣)が副葬されることが注目され、被葬者が武人的性格をもちはじめていることがうかがえる。墳丘形態は方形墳丘が中心である。
図17 北陸型装飾器台の分布

図17 北陸型装飾器台の分布

 松岡町の同じ時期の集落遺跡である葵遺跡では、月影式土器とともに尾張系土器(台付S字口縁の甕)や近畿系土器(庄内式土器)が出土し、引き続き各地との交流のあったことが知られる。その一方で、月影式土器も各地にもたらされている。その典型とされるものが、越前・加賀に中心をおく北陸型装飾器台である。その分布は西は九州北部(福岡県)から、東は関東(千葉県)・東北(福島県)、南は近畿(奈良県)、北は佐渡(新潟県)にまでおよんでいる(図17)。これらは、当地の人びとも各地へ広汎に動いていたことを示している。このような状況のなかで、突如として、大規模な前方後円(方)墳が出現するのである。すると、土器も今まで使用されていた月影式土器にとってかわって、近畿系の土器(布留式土器)が広く普及するようになる。



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