これまでみてきた税が個人、それも男にかけられた税であったのに対し、土地に課税されたのが租である。調庸などは都に納めるものであったのに対し、租はその国に納入され国の財源とされた。
このように租は国に納められるものであったから、都城遺跡でその木簡が見つかることはないはずである。しかし平城宮跡から、
「玉置郷伊都里(舂白米五斗)」(木四八)
・「越前国香々郡綾部里綾部里(ママ)」
・「□田伊支見白米五斗 」(木八五)
のような若狭・越前の白米の木簡が見つかっている。越前については、同国木簡にみえる税目・品目は少ないなかで、目につくのはこの白米である。
これは前述の六斗ないし五斗八升を単位とする庸米とは別のものであり、年料舂米とよばれているものである。田令田租条には、田租のなかから一部を舂いて京に送ることになっているが、実際には国衙の財源である正税稲を出挙に出して、獲得した利稲を精米して京進した。そして京では宮内省大炊寮に入り、諸司の常食に充てられた。
この年料舂米を出す国は都に近い国ないし海沿いの国で、輸送の便が考慮されていた。若狭・越前はともに『延喜式』民部下でも年料舂米輸納国に位置づけられており、四月三十日以前に納めるように規定されていた。木簡からそれが奈良時代にまでさかのぼることがわかる。
なお右の越前木簡の香々郡は加賀郡のことであり、弘仁十四年(八二三)三月に江沼・加賀の二郡を分割して加賀国が立てられるまでは、越前国に属した。『延喜式』では加賀も年料舂米運京国と規定されているのは、こうした奈良時代以来の前史があってのことであった。
天平二年「越前国大税帳」(公二)にも「舂米料稲」という記載がみえる。その量は越前全体で一万二六〇束にものぼる。郡別では丹生郡三五八〇束、坂井郡・江沼郡一〇〇〇束、足羽郡・加賀郡にはなく、敦賀郡と大野郡は欠損のため不明だが、両郡合わせて四六八〇束となる。これらは先に述べたように、田租から出したものではなく、大税の出挙によって得られた財源から支出されている。