先述のように将軍家は、松平賜姓や偏諱を与えることによって、有力大名と擬制的な家族関係を結んだが、同時に娘たちを諸大名と結婚 させ、本当の縁戚関係をもつことにも積極的であった。図5(図5 松平氏の姻戚関係)は、結城秀康・松平忠直父子の時期を中心に、福井松平家の姻戚関係を、差し当たり年令を無視して示したものである(一部省略)。再婚が少なくないこと、忠直の妻は将軍の娘であるが、弟たちには家臣の娘が配されているなど、家格によって配偶者に差がみられること、秀忠や家光が処分後の忠直の娘たちを養女にしていることなどが指摘される。
ここでは実子関係に限っているが、このほかにも家康や秀忠は、諸大名の娘たちを養女として嫁がせることも多かった。将軍が養女にして嫁がすのは両家への恩恵にほかならず、それらを加えるといっそう広くかつ複雑になる。例えば、加藤清正・福島正則・蜂須賀至鎮・黒田長政・山内忠義・伊達忠宗などの外様大大名が家康の養女と結婚 しており、しかも慶長十九年の大坂冬の陣までには一段落しているのである。諸大名間の義理を含めた舅・婿、また兄弟・従兄弟関係は、天皇家も含んで文字通り網の目をめぐらせたといえるほどのものがあった。
なお、この図には示されていないが、異母兄弟の多いことも特徴である。大名が多くの側室をもったことの表れであり、蓄妾の風がごく普通のこととして行われていたことを示している。
これらのことは、戦国以来のいわゆる政略結婚がより拡大したことを物語るが、武家諸法度によって私の婚姻が禁止されたこともあり、江戸時代を通じてみられたことであった。