This is a cache of http://localhost/fukui/07/kenshi/T3/3-2kansyuu-01.htm. It is a snapshot of the page at 2025-03-17T18:10:55.798+0900.
『福井県史』通史編3 近世一 目次へ  序へ  凡例へ


監修のことば
 『福井県史 通史編』の近世は通史編3・4の二巻で構成される。3の本巻はすなわち近世一で、天正初年の織田政権の越前・若狭への進出より、ほぼ享保期(一七一六〜三六)頃までを扱う。もとより歴史展開の理解のため、その前後の記述もあり、とくに交通と宗教と文化の章においては、その推移発展の経過を踏まえて史実を明らかにするため、近世末期に至る叙述が多くなっている。さて本巻担当の分の特色あると思われる事項のいくつかを試みに取り上げてみよう。
 政治支配の部で、先ず織田信長は一向一揆掃蕩後に越前国内に有力武将を配置し、柴田勝家は北庄にて国内の軍事的指揮権を持つが、政治については互いに監視し制御させた。越前の地位は、加賀の一揆勢力や南下の勢威をみせる上杉謙信に備える要もあった。関ケ原合戦後、越前は肝要の地として結城秀康が拝領したが、前田氏に備える意味もあったであろう。二代松平忠直配流後、次子忠昌北庄に入り、その弟三人は大野その他に分封され、忠昌に代り高田に封じた忠直の長子光長の二五万石を加え、分割された敦賀郡を除き、秀康系五家八六万石知行となる。その後秀康系の大野藩主等の他国への転封あり、他方において、丸岡藩は寛永元年(一六二四)本多氏福井藩より独立し、のち元禄八年(一六九五)有馬氏、また大野藩は天和二年(一六八二)土井氏、勝山藩は元禄四年小笠原氏、鯖江藩は享保五年間部氏、それぞれ入封した。小浜藩は慶長五年(一六〇〇)京極氏、寛永十一年酒井氏代って封ぜられた。福井藩は分家筋ともに親藩であり、越前諸藩みな譜代で有馬氏は外様であるが譜代格となっている。京極氏は徳川家と深い関係あり、酒井氏は譜代中の譜代といえる。近江彦根には、これまた譜代中の譜代井伊氏をおくが、京に接隣する若狭・越前諸藩は畿内地方を他より制御する意味も感ぜられる。しかし忠直配流といい、貞享の大法といい、親藩といえども幕府の統轄の厳しさを示している。
 土地制度として割地があり、越前はその資料の多い地であるようである。前『福井県史』の編纂主任であった牧野信之助は越前・尾張等の割地を調査し、明治四十四年(一九一一)「割地起源論」を発表した。水損均分説で、割地は近世に損害をひとしく負担しょうとするところより起ったとし、当時新鋭の論文であった。本巻においては、越前における割地資料を広く調査し、寛文八年(一六六八)福井藩領全域にわたって割地を命じた事実をも挙げ、割地が太閤検地以後、村内にて所持高と所持地が実際に不均衡あり、これを訂正する仕法として始まったとし、多く新たに事例を紹介して論を進めている。
 畿内に隣接した若狭は中世において漁業の先進地であったが、近世初期には若越の漁業は栄えていた。若狭湾では鰯鯖の大網漁が代表的磯漁となっており、越前においてもすでに大網漁が若狭より伝来していたようである。若越では沖漁も近世初期には成立しており、全国的にも先進性を持っていた。しかし寛文・元禄と全国市場が発達し、集荷が広く迅速に多量に行われるようになって、若越の漁業の先進性もしだいに失われてきたらしい。
 北陸道のうち、越前では近江柳ケ瀬より栃ノ木峠を越えて板取宿より細呂木を経て加賀に至るのである。結城秀康入封して慶長七年に伝馬掟書が出て以来宿駅制が整備された。すなわち宿駅一五、板取・細呂木に口留番所がおかれ、宿駅はすべて福井藩領、貞享三年(一六八六)舟寄宿のみ幕府領となって一か月中二〇日間長崎宿と交替することになった。前代よりの主要交通路として、近江海津より七里半越を経て道口に出て木ノ芽峠を越え今庄にて北陸道に合流する近江路、府中より今泉・河野の海岸に達し敦賀へ渡航する西街道があった。近世には右の両道とともに、北陸道の利用が盛んとなり官道の主幹たる地位を占めた。また、九頭竜・日野・足羽の越前三大河川による運輸交通も重要であり、運漕業者等は河川利用に関し北陸道宿駅等との間にしばしば紛争を起している。
 越前とくに嶺北にては、真宗諸派は流布・紛争など多彩な事象を繰り返しながら、いわゆる真宗王国を形成した。三門徒派は如道の門流より起って本願寺教団と対立した。応仁の乱後、毫摂寺善鎮等は横越証誠寺を頼って京より下向し、今立郡山本庄に毫摂寺を再興し、のち清水頭村(現在地)に寺基を移し出雲路派本山となっている。高田派は戦国期以来、伊勢・越前の両専修寺は本寺争いで対立しつづけたが、寛永十二年・寛文三年の再度にわたり越前側敗訴と決着し、越前では多くの末寺門徒を失うことになる。東本願寺派に転じた門徒は寛文十年法雲寺を興し、貞享三年丹生郡大味浦に寺基を移した。同寺には室町期以来の高田派関係文書が伝存する。近世初期に東西の南本願寺が分立するが、越前の末寺中の大坂も両派に分属した。両本願寺間には吉崎山上の争論もあり、東本願寺派では百か寺騒動も起り、改派また復帰と動揺も激しかった。寺院の本末関係は幕府の政策上よりもきわめて厳重であった。曹洞宗は小浜藩領では比較的優勢であったが、その本末寺は知識と弟子問の法流を基本として成立し、重層的な構造をとるものが多い。曹洞宗は永平寺・総持寺の両本山制で両者関係は微妙なものがあり、例えば越前の触頭は永平寺末の福井孝顕寺で総持寺末寺をも支配し、触頭と配下寺院の対立を招いたりした。
 若越においての儒学振興の一端をみるに、小浜藩では近世中期以降に儒者の招聘盛んとなる。崎門学派の稲葉正義は酒井忠隆に随従して延享二年(一七四五)小浜に来た。また崎門学派若林強斎の門弟西依成斎も藩主の招請をうけ京より小浜に釆ている。小浜藩では崎門学派の勢力が保たれたが、越前の諸藩では前期より中期にかけては京都との接触が濃く、京学系の子学や伊藤仁斎派の古学が導入された。中期にはまた荻生祖徠徠の古文辞学が行われ、その後は江戸の学界との接触により折衷学派の学風も導入され、また江戸の昌平学派の教説が勢力を得るようになった。
 美術においては、近世初期岩佐又兵衛が北庄に来住し、福井藩に出仕し、二〇余年を越前に過して、独自の画填を開いたことは、顕著な事実である。建造物においては、天正四年(一五七六)の創建といわれ最古とされる丸岡城天守閣は二重三階で、小規模ながら優れた姿容をみせ、昭和二十三年(一九四八)震災で倒壊したが、元のごとく復建された。福井の御泉水屋敷(養浩館)は元禄十二年に造成され、七代藩主吉品は宝永五年(一七〇八)隠居後の居館とするため敷地を拡大し、かくして成った池泉廻遊式庭園は近世中期の名園の一として今に伝えられる。
 右は本巻記述のうちより恣意的に若干の事項を取り上げて簡略に紹介したまでである。本巻は二一名の執筆者の手に成るが、平成五年二月その他の編集関係者・事務局諸氏を加えて、第一回の原稿の検討会を開催し、以来二〇数回にわたり検討会を重ねてきた。厖大な量の近世資料を丹念に駆使し、今日までの諸研究の成果を踏まえ、またその批判の上に立って、本巻は成されている。
 擱筆するにあたり、編集・執筆・刊行を担当された諸氏に厚く敬意を表し、資料の採集・提供に援助・協力を賜わった各位に深く感謝を捧げるしだいである。
  平成六年十一月
                                     小葉田  淳



目次へ  序へ  凡例へ