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福井県文書館 | GONROKUー“技術官僚”佐々木長淳の幕末維新ー
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GONROKUー“技術官僚”佐々木長淳の幕末維新ー

開催期間・場所2025年5月23日(金曜日)~7月16日(水曜日)
9時~17時
福井県文書館閲覧室(入館無料)
概要 幕末福井藩で特異な活躍をみせた佐々木権六(長淳)。武器の製造や洋式帆船の建造、波止場の築造などに関わった佐々木の生涯を、松平文庫の資料等によってたどります。
関連イベント 1文書館トークイベント:ゆるっトーク「展示解説」
日時:2025年6月7日(土曜日)15時~16時
場所:文書館閲覧室
定員:当日自由参加
関連イベント 2文書館トークイベント:ゆるっトーク「ほんとうの"権六"」
日時:2025年7月5日(土曜日)14時~15時
場所:文書館研修室
定員:申込先着40名
申し込みフォーム(新しいウィンドウで開く)
GONROKUポスター

目次

  1. はじめに
  2. 佐々木権六―20代
  3. 佐々木権六―30代
  4. 佐々木長淳―40代

 幕末の福井藩で特異な活躍をみせた人物に佐々木権六(長淳)がいます。権六は藩の製造部門の責任者として銃砲や船舶の製造を指揮し、築港工事にも携わりました。
 また、慶応3年(1867)に最新技術や武器の導入のために渡米したことも注目されます。維新後は養蚕や紡績等の分野に活躍の場を移し、日本の近代化に大きく貢献しました。
 本展示では佐々木権六の生涯を、松平文庫等の資料を用いて紹介します。

佐々木権六(長淳)略年譜

 


はじめに

1. 福井藩士時代の権六の履歴

 佐々木権六(長淳。ながあつ)は、天保元年(1830)小左衛門(長恭。ながやす)の長男として福井城下に誕生しました。本資料には、嘉永6年(1853)に家督200石を相続してから、明治4年(1871)に明治新政府へ出仕するまでの履歴が詳細に記されています(数え年24~42歳まで)。

2.幕末期の福井藩士名簿

 最後の藩主松平茂昭の時代、慶応2年(1866)頃の「給帳」(藩士名簿)で、持物頭次席の箇所に権六の名前が見えます。文久4年(1864)に製造(制造)奉行に任じられた権六は、約700家あった中級藩士の最上位の家格「役番外」に属したことが読み取れます。


佐々木権六―20代

3.実戦的な剣術修行のため江戸へ

 権六の母・品(しな)の実家・鰐淵家は、田宮流居合術師範の家でした。嘉永2年(1849)、鰐淵は藩内での剣術改革を進めるべく、子の喜太郎と甥の権六を江戸修行に送り出します。20歳の権六は「三剣豪」の一人・男谷(おだに)精一郎に入門し、翌年帰国したとみられています。

4.神道無念流との他流試合で活躍

 嘉永5年(1852)、江戸の剣客・斎藤新太郎と門弟が来福し、他流試合が行われます。権六も田宮流を代表して2試合に臨み、それぞれ3本と2本の勝ちを収めました(各3本勝負)。藩では剣術改革のため「長剣術」の導入を進めており、権六はその「鼻祖(元祖)」とされます。


[パネル1]25歳 黒船に乗り込む

5.ペリーの黒船に乗り込む

 嘉永7年(1854)1月、前年に続き来航したペリー艦隊に対し、藩では偵察を派遣します。その一員だった権六は、小舟で黒船に近づき、旗艦ポーハタン号に乗り込みました。身振り手振りで艦内や武器の写生を許され、得意の剣技の形(かた)まで披露して黒船を下りたといいます。


[パネル2]28歳 造船に取り組む

6.造船をめぐってジョン万次郎と交流

 藩では通商と軍事に用いるため、西洋式帆船の建造を計画します。安政4年(1857)、独力でこれに着手したのが、製造方頭取の任にあった28歳の権六でした。幕府で造船等を指導していたジョン万次郎は、権六作製の帆船模型を見て、その精巧さに舌を巻きました。

7.オランダの造船書を参照

 松平文庫には、薩摩藩が建造した「昇平丸」、幕府が建造した「君沢型」などの西洋式帆船の図面とともに、造船に関する翻訳書が伝来しています。権六が洋式帆船の建造に取り組む際に参照したものとみられます。

8.西洋式帆船「一番丸」を建造

 安政6年(1859)、権六の尽力で竣工した西洋式帆船(コットル船)は「一番丸」と命名されます。全長11間(20 m)、幅3間半(6.4 m)、乗員数16人、船体はコールタールで黒く塗られていました。松平文庫には一番丸の初航海時の記録「旅泊のすさみ」も伝来しています。


[パネル3]28歳 製造方頭取となる

9.西洋式の銃砲の製造に尽力

 嘉永7年(1854)に大小銃并弾薬製造掛り、安政4年(1857)には製造局頭取に任じられた権六は、城下志比口(しひぐち)に新設された製造局で洋式銃の製造を指揮します。本資料は幕末に製造された小銃・大砲の設計図面を、後になって権六自身が抜粋・整理したものです。

10.ゲベール銃の設計図

 製造局で製造された雷管装置和蘭(オランダ)歩隊銃(ゲベール銃)の設計図面で、権六の自筆とみられます。本図からは、0.1ミリ単位での精密さが求められたことがわかります。同局の製造実態は不詳ですが、十数年間に6、7千挺のゲベール銃が製造されたとする資料もあります。


佐々木権六―30代

[パネル4] 33歳 独行車を組み立てる

11.ビラスビイデ独行車を組み立てる

 文久2年(1862)2月、江戸藩邸で権六が組み立てた「ビラスビイデ独行車」は、日本初の自転車とされるものです。松平春嶽がすぐ試乗できているため、三輪や四輪の可能性が指摘されています。銃砲製造などで培った機械工学の知識が生かされたものと思われます。

12.安島浦の築港工事を一任される

 文久3年(1863)福井藩は米国から大型蒸気船「黒竜丸(こくりゅうまる)」を購入しますが、三国港は水深が浅く係留が困難でした。そのため同年、権六に命じて坂井郡安島浦(あんとう)での築港を計画します。慶応元年(1865)には、この工事を10年間、権六に一任することが命じられました。


[パネル5] 38歳 アメリカに渡る

13.米国への「留学」を許可される

太郎衛門田地売券

 

 権六は、かねてより築港技術の習得や新型武器の購入を目的に渡米を希望していました。慶応3年(1867)4月、幕府から「印章」(パスポート)が交付されると、英学修行中の藩士・柳本直太郎とともに横浜を出航します。サンフランシスコ到着は5月11日のことでした。

14.軍施設の視察と武器の大量購入

 権六はジョンソン大統領とグラント将軍に面会し、余剰兵器の大量購入や軍港・陸海軍学校を含む軍施設の視察を許可されます。約半年の滞在で当初の目的を果たした権六は、慶応3年(1867)12月に横浜に帰港。武器に加え新型の織機も福井にもたらしたといいます。


佐々木長淳―40代

[パネル6] 42歳 新政府の役人となる

15.1873年ウィーン万博に派遣

 維新後の権六は、諱(いみな)の長淳(ながあつ)に改名。製造事業や渡米の経験を見込まれた長淳は、明治4年(1871)に新政府から工部省勧工寮(かんこうりょう)出仕を命じられます。同5年にウィーン万国博覧会一級事務官に任命されて翌年に渡欧。万博会場では日本館の建築監督の任に就きました。

16.殖産興業で国の近代化に寄与

 新政府での長淳は、明治5年(1872)竣工の葵坂(あおいざか)製糸所(東京)の設計等を担当。翌6年万博参加中には欧州4か国で養蚕や製糸・紡績の最新技術を調査。同10年には新町屑糸(しんまちくずいと)紡績所(群馬)の所長に就任するなど、殖産興業を進める農政官僚として活躍しました。

17.皇室と全国各地で養蚕を指導

 明治9年(1876)長淳はミラノでの万国養蚕学会でカイコの病気に関する報告を行い、同会名誉副議長に推薦されます。また、同12年には宮内省御用掛に任命され、8年間にわたって青山御所での皇后の養蚕指導にあたるとともに、全国各地で技術伝習を行いました。 

18.養蚕技術書を問答形式で執筆

牢人一件人足帳
A1001-00083『蚕務問答』(明治20〜22年)(県立図書館蔵)
 明治16年(1883)長淳は武生出身の渡辺洪基(こうき)が組織した殖産興業団体「万年会(まんねんかい)」の会員となり、『万年会報告』誌で「蚕事(さんじ)通信」を担当しました。誌上での養蚕家との問答や各地での講習の成果をまとめたのが、この『蚕務問答(さんむもんどう)』です。図も長淳自筆によるものです。

会場位置MAP

会場_文書館閲覧室