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『福井県史』通史編2 中世 目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第三節 動乱期の社会変動
     五 女性の活動
      家の形成
 南北朝期には、それまで荘園の主層が自称していた大中臣真村・物部則時などのような古代の氏の姓と個人の乗りが次第にみられなくなり、代わって左近権守・泉大夫・平大夫・源内のように姓・を称さない、通称ともいうべきものが一般化してくる。この変化は近世の百姓につながる百姓身分の呼称の形成として注目すべきものと思われるが、荘民の間で古くからのウジのつながりが最終的に意味をもたなくなってきたことの反映でもあろう。そして村落上層農民である主層においては、家の存続を意図する家結合が強化されてきた。
 例えば、遠敷郡太良荘のは鎌倉末期には兄弟などによって分割されて半が多くなり(な函五二)、さらに南北朝期にはこの半が分割されて四分一が一般化するが(オ函五九)、室町期には一つの例外(勧心八分一)を除いてこれ以上分割されることはなかった(ア函一七六、フ函一二五)。すなわち、鎌倉末期より新たな主家が分立したが室町期までに主の家産としての標準規模に落ち着いたのであり、これ以後主家の数も固定化されるようになる。主職は「嫡子」が相続すべきであるという主張も鎌倉後期にはなされるようになり(は函一〇一)、南北朝期には「嫡子」が死亡した場合には、その嫡子とならぶ「嫡女」に相続権があるという主張も現われている(ハ函四五)。



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