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『福井県史』通史編1 原始・古代 目次へ  前ページへ  次ページへ


 第六章 若越中世社会の形成
   第三節 若越の荘園公領と地域社会
    一 若越の中世的郡郷制
      越前国の中世的郡郷制
 越前国の中世的郡郷について考える場合、まず検討しておく必要があるのは、若狭国ではほとんどみられなかった郡の分立という問題である。古くは弘仁十四年(八二三)、丹生郡から今立郡(のち東条郡ともいう)が分立したが、そののち平安時代末期までに、図100に示したような分郡がみられた。古代から中世にかけて変化がまったくなかったのは、大野郡のみで、そのほかの四郡は何らかの変容を遂げている。  
図100 越前国における分郡関係

図100 越前国における分郡関係

 敦賀郡は名称のうえでは変化がないようにみえるが、丹生郡が丹生北郡と南仲条郡に分かれた際、敦賀郡の一部が南仲条郡に編入されているので、中世の郡域は古代に比べると狭くなっている。なお、丹生北郡の史料上の初見は嘉応元年(一一六九)である(文一九六)。
 分郡がもっとも激しいのは今立郡であって、まず同郡が北郡と南郡に分かれ、さらにそれぞれが東郡・西郡に分かれたので、今南東・今南西・今北東・今北西の四郡に分化した。なお、今南西郡の史料上の初見は建久三年(一一九二)で、今北東条(郡)もこのころまでにみえる(醍醐寺文書・久我文書『資料編』二)。
 足羽郡からは、その北部の九頭竜川流域が吉田郡として分立し、さらに残りの足羽郡が北郡と南郡に分かれた。足羽北郡と足羽南郡は北陸道を境界としたようで、その西側が北郡、東側が南郡となっている。また、坂井郡はおおむね九頭竜川をはさんで坂北郡と坂南郡に分かれた。
 これら東西南北の方位を冠した分郡がいつ進行したのか、明確な徴証はない。しかし、平安末期から鎌倉初期にはほぼその存在が史料的に確認できるようなので、やはり十一世紀半ば以降が画期となるのではなかろうか。しかも、このような分郡のありかたは、中世的郡郷制の四類型のうち、「郡的単位」とよばれているものにふさわしいものである。
 そこでさらに詳しく越前国の実態を知るために、『和名抄』の郷名が中世にどの程度継承されるか検討してみたい。ただし、越前国には大田文が現存しておらず、個別的な徴証によらざるをえないので、考証に完全を期しがたい点がある。また、『和名抄』の越前国の箇所は、高本・急本とも錯乱があるが、ここでは第四章第一節の考証に従いたい。
 敦賀郡は、『和名抄』では神戸・与祥・津守・伊部・従者・鹿蒜の六郷からなっているが、従者以下はそののち南仲条郡に含まれたようである。これらのうち、郷名では従者を継承すると思われる徙都部郷が、保名では鹿蒜を継承する加恵留保が中世にみえる。
 丹生郡は、賀茂・野田・丹生・岡本・泉・従者・可知・朝津・三太の九郷からなっていたが、このうち従者は郡境をはさんで敦賀郡にもあった郷で、南仲条郡設置以後は一体化したと考えられる。平安時代に徴証があるのは泉郷のみであって、嘉応元年に大蔵荘(丹生北郡)の東に接していた。このほか、室町・戦国時代の史料にあらわれる郷として、野田郷(野田本郷)と丹生郷がある(いずれも丹生北郡)。
 今立郡は、芹川・大屋・酒井・味真・勝戸・服部(勝部)・中山・船津・曾博の九郷からなっていたが、中世に郷名が継承されたと思われるのは、今南西郡山本荘内の船津郷のみである。このほか、小礒部保(今北東郡)は勝戸郷を受け継いでいる可能性があり、大屋荘(今南西郡)や酒井荘もそれぞれ大屋郷・酒井郷を継承している可能性がある。
 吉田郡を分出する以前の足羽郡は大郡であって、安味・額田・足羽・草原・少名(小名)・江上・井手・中野・岡本・江沼・野田・上家・川合・利苅の一四郷、ないし曰理(急本なし)を含めた一五郷からなっていた。しかし、中世に直接継承される郷名はなく、足羽荘(足羽御厨)・少名荘・河合荘などの荘名に受け継がれている可能性があるのみである。
 大野郡は、大沼・大山・毛屋(尾屋)・加美・資母・出水の六郷からなっていた。これらの郷のうち、大山郷が小山郷(のち小山荘)に、出水郷が泉郷(のち泉荘)に継承された可能性が強いが、そのほかの郷は徴証が乏しく、中世には継承されなかったように思われる。
 坂井郡は、粟田・荒伯・高向・磯部・長畝・高屋・坪江・福留・海部・川口・余戸・堀江の一二郷からなっていた。これらのうち、中世に継承されたことがほぼ確実な郷は、坪江郷(のち坪江荘)と川口郷(のち河口荘)であって、ほかには磯部荘・高屋荘に可能性がある。
 以上の検討の結果、越前国では『和名抄』郷の中世への継承率が、若狭国に比べてかなり低いことが明らかになったと思う。ただし、国府が置かれた南仲条郡とそれに隣接する丹生北郡のみは、『和名抄』郷がかなり多く継承されている。したがって、国内の政治的中心地域には『和名抄』郷が遺存する傾向が強く、そのほかの地域では『和名抄』郷が解体してしまう傾向が読み取れるのである。このことの意味については、さらに国別に荘園と公領の形成過程を詳しくあとづけることを通じて考えてみたい。
 



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