1 近世の幕開け(2) | ||
ところで、近世の社会では、大名や家臣の領知の高も、村の大きさや年貢の収納もともに米の量である石高で表示されます。この石高は、1つ1つの耕地である田畑を測り、そこからとれる米の量を基準に決められたものです。この作業を検地といいますが、豊臣秀吉はこれを全国的規模で行いました。これを一般には太閤検地とよんでいます。若狭では、86年、前年に若狭の領主となった浅野長吉によってなされました。越前での検地は、80年ころに丹羽長秀が行いますが、本格的なものは98年(慶長3)に豊臣政権から検地奉行が派遣されていっせいに行われました。検地は、荒地にも高が付けられたり、塩浜なども検地の対象とされ、農民にとっては厳しいものでした。この検地の結果、若狭の石高は8万5000石、越前は68万石となりました。 |
▲豊臣秀吉(1537〜98年) 大阪城天守閣蔵 |
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<東京大学史料編纂所所蔵目録データベースへ> ▲浅野長吉(1548〜1611年) 東京大学史料編纂所蔵 |
▲長谷川秀一(?〜1594年) 滋賀県 崇徳寺蔵 |
▲金森長近(1525〜1607年) 岐阜県 素玄寺蔵 |
▲世久見浦の太閤検地帳 三方郡世久見浦に残された1588年(天正16)の検地帳の一部 である。田の所在・等級・面積・斗代・名請人が記されている。 「永荒」「荒」「年々荒」とともに「うせ(失)人」の記載がみられる。 三方町 桜井隆司氏蔵 |
▲越前・若狭の太閤検地石盛 越前は1598年(慶長3)、若狭は88年(天正16)の検地での数値である。石盛は、面積1反あたりの米の収量を基準に算定されたものである。越前・若狭の石盛は、畿内に比して高く、ことに越前の石盛は田畑ともにきわめて高く、98年の検地が厳しいものであったことがうかがえる。 |