1 近世の幕開け(1) | ||
▲丹羽長秀(1535年〜85年) 福井市 顕本寺蔵 |
▲柴田勝家(?〜1583年) 千葉市 柴田勝次郎氏蔵 |
▲織田信長(1534〜82年) 愛知県 長興寺蔵 |
1568年(永禄11)、足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長の勢力が越前・若狭へと浸透するとともに、この地の近世は始まります。若狭では武田氏の滅亡、朝倉氏の若狭侵入、信長の武将丹羽長秀による若狭支配、越前では信長の第1次越前攻めの失敗、朝倉氏の滅亡、守護代桂田長俊、ついで一向一揆による支配、信長の一揆制圧、柴田勝家の入部をへて、戦国の世がおわりをむかえました。 柴田勝家・丹羽長秀という信長の有力武将による越前・若狭の支配は、82年(天正10)に信長が明智光秀に討たれた本能寺の変後もしばらくは続きます。変の翌年、羽柴秀吉は、湖北の賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破り、ついで勝家の居城北庄城を落とし、柴田攻めに協力した丹羽長秀に越前の大半を与え、敦賀郡を蜂屋頼隆に与えました。大野郡はそれ以前から領主であった金森長近が引き続き領しました。 丹羽長秀の去った若狭は、木村隼人佐・堀尾可晴が、85年には長秀の子長重が、87年には豊臣氏五奉行のひとり浅野長吉が、93年(文禄2)には木下勝俊・惟俊が領するところとなりました。一方越前は85年に長秀が死去したあと長重が跡を継ぎますが、まもなく若狭へ転封となり、北庄に堀秀政、東郷に長谷川秀一、府中に木村常陸介が入り、その後も領主の交替が相次ぎました。 |
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▲織田信長禁制 織田信長が1573年(天正1)の朝倉攻めにさいし越前各所に濫妨狼藉、 陣取、放火、竹木の伐採を禁じた禁制を与えているが、これは坂井郡 長崎村の称念寺に与えたものである。 丸岡町 称念寺蔵 |
▲豊臣政権期の越前・若狭の領主 [拡大図] 26KB ( )は領主であった期間を示している。 |