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『福井県史』通史編2 中世 目次へ  前ページへ  次ページへ


第三章 守護支配の展開
   第三節 室町幕府と国人
    四 若狭の土豪
      山西氏
 山西氏は惟宗氏を本姓とし、三方郡の延暦寺常寿院領である織田荘の山西郷を本貫とした。荘の成立とともに郷内には公文・下司・政所・預所が置かれ、そのもとに六番頭が設けられていったが(資8 園林寺文書一六号など)、郷内の有力者として山西氏は下司を務め在地の支配にあたった。鎌倉幕府成立後、下司である惟宗頼宗(入道西念)は、山西荘司頼宗として同族の山西雅宗とともに御家人となった(同一・二号、ホ函四)。山西氏は鎌倉から南北朝期を通じて勢力を保持し、建治元年(一二七五)京都六条八幡宮の造営にあたり、山西兵衛尉跡の人が五貫文を負担しており(「六条八幡造営注文」)、また下司惟宗頼基や当郷の「地頭」としてみえる山西三郎次郎の活動も知られる(資8 園林寺文書七号など、資2 本郷文書一六号)。しかし応安の国一揆では一揆方として戦い敗北し、以降史料上にはみえなくなり、山西氏は没落したものと思われる。郷内は代わって包松・今安・重包らの番頭を中心とする体制へと変化していった(「政所賦銘引付」)。



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