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『福井県史』通史編2 中世 目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第四節 荘園・国衙領の分布と諸勢力の配置
    一 越前の荘園・国衙領と地頭・御家人
      足羽郡
 足羽郡は平安末期までに北部が分かれて新たに吉田郡が成立し、のちに足羽郡自体も足羽南・足羽北の二郡に分化した。足羽南郡は足羽川の中下流域でその用水系に属し、足羽北郡は足羽南郡の西側に位置する。足羽郡から吉田郡・坂井郡にかけて、平安末期から鎌倉初期に河合斎藤系・疋田斎藤系の諸氏が成長した。
 足羽南郡には多くの荘・保が成立したが、足羽川中流部から平野に流れだすところにかけて展開した山間荘園宇坂荘は比較的古い荘園である。高陽院領であることが確認され(『兵範記』仁平三年秋巻裏文書)、のち近衛家領となる。荘域は、現在の美山町小宇坂・境寺から福井市の安波賀町・前波町・高尾町にいたる。鎌倉初期に地頭が置かれ、承久の乱のとき預所は後鳥羽上皇の乳母藤原兼子(卿二位)だった。乱後に地頭はこのことを幕府へ上申して地頭の沙汰として年貢を納入し荘務を行なったという。寛喜元年八月に兼子が没すると近衛基通は宇坂荘の回復を図り、同三年六月幕府から預所方の荘務権が認められた。しかし地頭の非法は続き、寛元四年以前には在地で狼藉事件がおこり百姓が遠流に処されている(資2 尊経閣文庫所蔵文書二〜四号、保阪潤治氏所蔵文書一号)。そののち検注が実施され地頭請所となった。
 南北朝期になると貞治五年(一三六六)十一月に足利義詮は、越前朝倉氏の祖広景に宇坂荘をはじめ棗荘(旧坂井郡棗村)・東郷荘・坂南本郷・河南下郷・木部島(旧坂井郡木部村のうち)・中野郷の計七か所の荘郷地頭職を恩賞として与えた。これらの所領は足羽郡から吉田郡と、坂井郡の南部に分布しており、その後の朝倉氏発展の基盤になった。朝倉氏の根拠地となる一乗谷もこの宇坂荘に属している(五章三節三参照)。
 宇坂荘の西隣りの安原荘(福井市安原町)は、河合斎藤系の安原実利・同十郎実親父子の苗字の地だった。実利は崇徳院武者所に勤め、実親は承久の乱で京方に属し斬殺されたという(『尊卑分脈』)。そして安原氏は没落したらしいが、当地は鎌倉中期ごろ前述の今立郡大屋荘を知行した惟宗行経のものになっている。鎌倉末期には後伏見院領として安原荘が立荘されたが、大覚寺統の後醍醐による新政が行なわれるようになると後醍醐は持明院統の当荘の人事に介入して問題をおこした(『花園院宸記』正中二年七月三日条裏書)。
 安原荘の隣りの東郷荘(福井市東郷二ケ町付近)には、承久三年(一二二一)五月十三日付で島津忠久が地頭に補任された(『島津家文書』)。荘園領主に関しては、建長二年(一二五〇)に九条道家から一条実経に譲られており一条家領となる(資2 宮内庁書陵部 九条家文書一号)。稲津荘(福井市稲津町)は鎌倉初期の文書にみえ(資2 補遺 醍醐寺文書一〜三号)、成立は平安末期にさかのぼる。白河法皇が夭折した娘である郁芳門院のために建立した六条院の荘園に編成され、鎌倉後期には室町院が管領した(資2 集一号)。河合斎藤系の稲津氏の苗字の地で、稲津氏は鎌倉前期にも存続し、御家人波多野氏と姻戚関係をもち栄えた(『尊卑分脈』)。同名の国衙領稲津保には、建暦二年(一二一二)に小国頼継が地頭に補任された(『吾妻鏡』同年正月十一日条)。稲津保と六条保(福井市上六条町・下六条町)は国衙領の便補保で、官御祈願所の月充米五〇石余を負担している(「門葉記」、資2 東山御文庫記録七号)。
写真32 足羽郡稲津

写真32 足羽郡稲津

 得光保(福井市徳光町)は足羽郡の荘保のなかでもかなり大きなものだった。前述のように建久元年には昌寛が御家人としてその地頭職を知行した。そのほか足羽南郡の南部には生部荘・久安保重富・太田保・主計保などがあり、承久三年八月に守護島津忠久の子忠義(忠時)は生部荘・久安保重富の地頭に任じられた(『島津家文書』)。主計保は鎌倉末期には内管領長崎氏が地頭であった(資2 二神文書一号)。
 和田荘は足羽川の北岸の福井市和田中町から西方一丁目に及ぶ大きな荘園で、坂井郡坂北荘とともに長講堂領だった。この長講堂は後白河院の六条殿御堂のことで、後白河院は集積した多数の院領荘園を晩年に長講堂領として編成した。鎌倉後期には持明院統に伝わり、一時期伏見院の近臣で歌人として有名な京極為兼が和田荘を知行した(資2 伏見宮家文書二号)。当荘の年貢は、応永十四年(一四〇七)の長講堂領目録では米六〇〇石だった(資2 集二号)。地頭の所見はない。
 足羽北郡については、まず蕗野(福井市冬野町)には安楽寿院領蕗野寺と興善院領蕗野荘があり、別に鎌倉後期には蕗野保もあり、葉室家の一族の勧修寺家の女性が知行した(資2 京大 御遣言条々一号)。江守保は国衙領で南北朝期からみえる(資2 柳原家記録二・五・六号)。
 木田荘(旧足羽郡木田村)は、興福寺の本願藤原不比等の忌日の仏事の布施綿や寺家の宿衣を負担する荘園で、興福寺東北院が管領した。東北院五師忠範は白河院政初期の人物であるが、木田荘を知行してのちに東北院院主職と木田荘と坂井郡河口荘を弟子の明算に譲った(「東大寺封戸文書書上」、「類聚世要抄」、「三箇御願料所等指事」)。戦国期にいたっても東北院が木田荘を知行している。また当地を本拠としたとみられる河合斎藤系の木田氏の名が知られる(『尊卑分脈』)。社荘は足羽郡の有力神社足羽社とその神宮寺が所領化したもので、ほぼ足羽山の北麓にあたる。確実な古文書の初見は元亨四年(一三二四)で、田所職以下の名田畠が某定重に充行われている(資3 足羽神社文書三号)。
 足羽御厨は伊勢神宮領の御厨で、承安元年(一一七一)に「建立」された(資2 神宮雑書一号)。平家没官領として源頼朝から妹の一条能保室に与えられ(『吾妻鏡』建久三年十二月十四日条)、そののち外孫の九条道家から一条実経へと伝えられた。足羽荘は大覚寺統が管領した荘園で、昭慶門院領目録には藤原貞子の所領としてみえ、一条実経の足羽御厨給主職が幕府の介入により停止され、後嵯峨院に寄進され立荘されたとされる。足羽御厨・足羽荘の荘域については未詳であるが、足羽川の下流部に比定される。



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