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図説福井県史 近世28 洋学の発達(2)
28 洋学の発達(2)
 大野藩においては、藩主土井利忠の意向で、洋学はとくに重視されていました。43年(天保14)に設置された藩校明倫館でも洋学の講義が行われていました。ここでは、大坂の適塾で学んだ土田龍湾や林雲渓らが教授にあたったようです。さらに洋学振興のために、55年、大坂から伊藤慎蔵が招かれました。彼は適塾で塾頭を務めていた人物で、先の龍湾・雲渓の後輩にあたります。翌56年には新たに蘭学所(洋学館)が設置され、慎蔵はその教授方を命じられました。

 大野藩でも洋学奨励の意図は、砲術や航海術など実用的な知識・技術の習得にあり、これが利忠による藩政改革に大きな影響を与えたのです。
 『海上砲具全図』 ▲『海上砲具全図』
大野藩では藩主利忠の命で数多くの書籍が全国から集められた。その中にはオランダ、 イギリスなどの原書もあり、大野藩士の手で翻訳・出版されたものも多い。
                                        福井県立大野高等学校蔵

 ▼『英吉利文典』                      福井県立大野高等学校蔵
『英吉利文典』
     
  大野藩洋学館跡の碑 
  
                                                         大野藩洋学館跡
大野藩洋学館跡
 洋学館には大野藩士以外にも全国から
 留学生が集まってきた。そのなかには、
 伊藤慎蔵の師である緒方洪庵の2子、平三
 と四郎の名もみえる。本来の洋学館跡は
 現在立っている洋学館の碑より東南側道
 路に位置する。         大野市城町
■笠原白翁と種痘         笠原白翁
        ▲笠原白翁  福井市立郷土歴史博物館蔵
 江戸時代、最も死亡率の高い病気の1つに疱瘡(天然痘)があげられる。その予防として考えだされたのが種痘であり、これを福井に伝えたのが蘭方医笠原白翁(良策)である。
 1849年(嘉永2)、オランダから長崎へもたらされた痘苗(ワクチン)が、9月には京都の日野鼎哉(白翁の師)のもとに届けられていた。白翁は京都を訪れ、鼎哉とともに一般への接種にあたった。そして11月、いよいよ福井へ痘苗が伝えられる。
 それにあたり白翁は、より確実な、子どもから子どもへ植え継ぐ方法をとった。19日子どもたちとともに福井に向けて出発したが、途中、今庄あたりでは大雪の中のまさに命がけの行軍であったという。そして25日、ついに福井に到着した。それから、55年(安政2)には済生館に除痘館が併設され、多くの子どもたちの命を救うことになるのである。
 その後、白翁がもたらした種痘は越前はもとより金沢、富山にもひろまっていった。とくに大野では54年に仮種痘所が設置され、58年にはそれが発展して済生病院となっている。

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