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『福井県史』通史編1 原始・古代 目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 律令制下の若越
   第三節 都につながる北陸道
    一 官道の役割
      若狭・越前国の駅家の比定
 それでは、古代の福井県域にはどのような駅があり、どれだけの駅馬を備えていたのであろうか。若狭・越前国の駅伝馬に関して『延喜式』兵部省諸国駅伝馬から抽出すると、次のとおりである。
  若狭国駅馬 弥美・濃飯各五疋
  越前国駅馬 松原八疋、鹿蒜・淑羅・丹生・朝津・阿味・足羽・三尾各五疋
      伝馬 敦賀・丹生・足羽・坂井郡各五疋
 若狭には二駅、越前には八駅が置かれ、松原の八疋を除けば規定の馬が用意されていた。ちなみに北陸道のほかの国の駅馬の数も五疋であるが、通行の困難な親不知・子不知を間にはさむ、越中側の佐味駅と越後側の滄海駅では八疋の馬を備えていた。『延喜式』にはないが、平城宮跡から発掘された天平四年の年紀のある調木簡によって玉置駅があったこと、昭和六十一年平城宮跡から出土した木簡(木七一)によって三方郡に葦田駅のあったこと、天平神護二年(七六六)十月二十一日付「越前国司解」(寺四四)によって桑原駅のあったことは明らかである。これらの駅も含めて、次に若狭・越前国の駅の所在地や駅路について考えてみたい。

表32 若狭・越前国の駅家比定地

表32 若狭・越前国の駅家比定地

 近江から北陸に入るルートは、琵琶湖の北部高島郡今津町から西へ進み、石田川をさかのぼって水坂峠(海抜二七七メートル)を越え、北川に沿って若狭に入るAルートと、マキノ町海津から北上して敦賀平野に出るBルート、いわゆる西近江路があった(図60)。わが国最古の地図といわれる「行基図」(『拾芥抄』)によると、近江と北陸をAルートでつないでいる。若狭国は北陸道の最初の国であるのでAルートで描いたのかどうか定かではないが、Aルートで北陸に入る方が安易であったと考えられ、早くから利用された道であったのであろう。『日本書紀』垂仁天皇三年三月条によると新羅の王子天日矛の通過した道もAルートであった。高島郡高島町鴨遺跡から「遠敷郡(遠敷郷小丹里秦人足嶋庸米六斗)」(木七八)と書かれた木簡が出土した。この木簡の書式からすると郷里制施行期間のものであるので、これは八世紀初め若狭から平城京へ庸米を運ぶ途中で、庸米に付けられていた付札(木簡)が落ちたものと考えられる(この木簡の出土層位は伴出土器の推定年代からすると九世紀後半に属するとも考えられている)。この一枚の木簡は、Aルートを庸・調を背にしてあえぐ運脚一行の姿を想像させてくれる。



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