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図説福井県史 古代14 愛発関と恵美押勝の乱(1)
14 愛発関と恵美押勝の乱(1)
 越前の愛発山に置かれた関である愛発関は、美濃国不破関・伊勢国鈴鹿関と並んで、三関の1つとして最も重視された関です。関は主要な国境に置かれ、浮浪・逃亡という不法な交通を取り締まったり、治安の維持にあたりました。なかでも三関は最重要な関と位置づけられていたのです。それらは天皇の死去や乱のおこった時には閉じられ(これを固関という)、交通を制限し内乱の拡大を防止しました。愛発関がその威力を最も発揮したのが、奈良時代の764年(天平宝字8)9月におきた恵美押勝(藤原仲呂)の乱の時です。

 淳仁天皇と親密で、当時正一位大師(太政大臣)という最高の地位にあった押勝ですが、天変地異が相次いでおこり社会不安が深まり、さらに孝謙太政天皇と結んだ僧道鏡がしだいに台頭し政権基盤がゆらいでくると、危機感をいだき、ついにクーデターをおこします。そして天皇の権力を象徴する駅鈴・内印を奪おうとしますが失敗し、近江をめざして都を離れました。政府はさっそく、三関を閉じる三関固守という措置を取りました。近江は古くから藤原氏との関係が深かった国です。ところが政府軍に先回りされ、勢多橋を焼かれたため、押勝は瀬田川の東にあった国府に行けなくなり、仕方なく湖西を越前に向けて北上することになったのです。当時、越前の国守は押勝の息子の辛加知でした。越前はにわかに緊張してきました。 しかし政府軍は再び先回りし、辛加知を殺し愛発関を押さえました。おそらく湖東を走ったのでしょう。そうとは知らずに愛発関に来た押勝軍は行く手を阻まれ、あわてて退却を余儀なくされます。再度体勢を立て直して愛発関をめざしますが、多くの犠牲を出し、さらに近江の三尾崎(高島町明神崎)での戦闘でも敗れます。進退窮まった押勝は船で湖上に逃げますが、結局捕えられ高島町勝野の乙女ケ池のあたりで、妻子従者ともども斬首されました。わずか1週間の出来事でした。 
  恵美押勝の乱関係図
  ▲恵美押勝の乱関係図
           拡大図 39KB
恵美押勝らが処刑されたという乙女ケ池のほとり
▲恵美押勝らが処刑されたという乙女ケ池
 のほとり
       滋賀県 高島町教育委員会提供
仲麻呂の署名のある「国家珍宝帳」呂の署名のある「国家珍宝帳」
                正倉院宝物


                「令義解」軍防令置関条
                       紅葉山文庫本
           東京都 国立公文書館内閣文庫蔵
         
「令義解」軍防令置関条

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