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図説福井県史 中世4 日本海と海運(2)
4 日本海と海運(2)
 廻船人が輸送物資を積み下ろしした場所が湊でした。
 こうした湊としては、越前では敦賀、若狭では平安期から鎌倉期にかけて気山津、鎌倉期には西津、代わって小浜が知られ、北は越後・津軽地方、南は出雲・北九州地方にいたる日本海側諸国の京都への年貢物資が陸揚げされていました。そして敦賀は馬借・遊女も住むなど、都市としての様相を備えていきました。
 またこれらの湊では、領主が関を設置し、津料・勘過料・勝載料などという名目で船に課税していました。九頭竜・足羽・日野の三大河川などを利用して越前の年貢が集積された三国湊では、領主は在家地子・長者銭を課しており、刀祢に代わり湊の中心的役割を担うようになった問丸などの蓄えた経済力を吸収しようとしました。
 こうした事態に対し、例えば鎌倉幕府により文永年間(1264〜75)の末に新関停止令が出されるなど、海上交通の円滑化を図るための政策が採られました。
 しかし、鎌倉末期から室町期に、三国湊において領主であった興福寺と内裏内侍所が津料を分割徴収していたり、守護武田氏支配下の戦国期小浜湊について一色氏や天皇家が互いに得分権を主張しているように、日本海海運の活発化にともない増大していく湊からの収益をめぐって諸勢力が競合しました。
 若狭彦社祢宜の死去した年が「建文二年」(1400年)という中国年号で記されていたり、戦国期には小浜の武士が大蔵経を求めて朝鮮へ船を派遣しており、敦賀や一乗谷に唐人が居住し、足羽郡北庄には唐人座が成立しています。また小浜には室町期に南蛮船が、三国にも戦国末期に唐船が入港するなど、大陸や南方の国との交流も行われ「国際都市」となっていった湊を中心として、日本海の海上交易は活発に展開しました。
過所船旗  
 ▲過所船旗
 遠敷郡多烏浦の船徳勝は、1272年(文永
 9年2月、若狭守護の得宗北条時宗からこ
 の旗章を与えられ、「国々津泊関々」を煩
 いなく自由に通行しうる特権を認められた
 。旗章上部の紋章は、北条氏の三つ鱗の
 紋である。     京都大学総合博物館蔵
          













若狭のおもな浦
廻船業のほか、塩生産や漁業に携わってい
た若狭の浦は、それ自体独自の単位をなす
ものであったが、例えば多烏浦は西津荘の
「片荘」とされ、御賀尾浦は倉見荘に、犬熊
浦は国富保にそれぞれ属していた。荘園領
主は、中世の浦のもつ生産・流通などの諸
機能の掌握に強い関心をもっていた。
若狭のおもな浦
三方郡常神浦  三方郡御賀尾(神子)浦  遠敷郡多烏(田烏)浦

遠敷郡志積浦  遠敷郡西津 
▲左上から、三方郡常神浦、三方郡御賀尾(神子)浦、遠敷郡多烏(田烏)浦。左下から遠敷郡志積浦、遠敷郡西津。

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