斯波氏との関係において、右にみた諸氏とはやや異なる国人に朝倉氏がいる。朝倉氏は但馬国朝倉荘(兵庫県八鹿町)を苗字の地とする武士で、南北朝の内乱が始まると、朝倉高景が斯波高経に属して転戦しながら成長を遂げた。高景は暦応二年(一三三九)に斯波高経が足羽郡黒丸城を撤退するさいの軍議に参加しており(『太平記』巻二一)、早い時期に相当高い地位を得ていたことがうかがえる。彼が河口荘で活発な活動を展開できたのも、斯波氏を通じて河口荘の諸職を獲得したからであろう。
しかし、高景は貞治の政変で斯波高経から「御不審」を招き(「鵜殿関問答引付」所収 貞治五年十月十一日付賢重申状案)、越前に下った斯波氏に従わず幕府方に属しているように(壬生本「朝倉系図」所収 貞治五年八月九日付足利義詮御判御教書)、斯波氏との関係は決して強固なものではなかった。貞治六年十月以前に、朝倉宗賢(高景)は越前の国人深町・真柄氏に今立郡真柄荘を預けている(資2 保阪潤治氏所蔵文書三号)。この所領の預置という、守護に類似した権限を高景が行使しえたのは、前年の斯波氏失脚のあと一時的にせよなんらかの公的権限を幕府から与えられたからかもしれない。このように朝倉氏は甲斐氏や二宮氏らと異なり、斯波氏とは距離を置き、将軍と直接関係を結ぶ余地をもっていた、独立性の強い武士というべきである。表19に朝倉氏の名がみえないところに彼の立場がよく表われている。ただ明徳二年の明徳の乱で、朝倉氏が斯波軍の重要な一翼を担って参戦しているように(「明徳記」)、斯波氏との関係は南北朝末期にかけて徐々に強化されていったものと思われる。