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三館連携ミニ展示:「絵本太閤記」と秀吉・秀長

 現在、放送中の大河ドラマ「豊臣兄弟!」は、天下人となった豊臣秀吉の弟秀長を主人公にした物語です。展示中の「絵本太閤記」は、兄秀吉の生涯を描いた読本(よみほん)(小説)で、江戸後期に刊行されて庶民に人気を博しました。「絵本」の名を冠しているように、多くの挿絵が入り、それが魅力のひとつとなっています。

展示期間:2026年4月18日(土)~6月24日(水)

豊臣秀吉(安土桃山時代の武将、1537年~1598年)

 尾張の戦国大名・織田信長に仕え、初めは木下藤吉郎秀吉と名乗っていました。戦功をたて、天正元年(1573)には近江長浜城主となりました。その後羽柴秀吉と名乗り、信長の死後は、明智光秀や柴田勝家と戦って破り、さらに四国・九州・関東・奥羽を平定して天下統一を成し遂げました。この間、同13年(1585)に関白に任官され、翌年には太政大臣となり、豊臣の姓を受けています。石高制の基礎となる太閤検地の全国的な実施や、百姓から武器を取り上げる刀狩などの政策により、兵農分離を促進したとされます。また、明国を討つために朝鮮出兵を行いましたが、戦局が膠着(こうちゃく)化するなか、慶長3年(1598)に伏見城で死去しました。享年62でした。

豊臣秀長(安土桃山時代の武将、1540年~1591年)

 秀吉の弟で織田信長に仕え、初めは木下小一郎長秀と名乗りましたが、天正13年(1585)頃より長秀を秀長と改めています。兄秀吉の中国攻めで頭角をあらわし、信長の死後も山崎の戦い、賤ヶ(しずが)岳(たけ)の戦い、小牧・長久手の戦いなど、兄に従って転戦しました。特に同13年の紀州攻めと四国攻めの功によって、大和・紀伊・和泉を領する大大名となり、大和郡山城を居城としました。同15年の九州攻めでは先手(さきて)の大将として島津軍を破り、九州平定後に従二位権(ごん)大納言(だいなごん)に昇り、大和大納言といわれました。諸大名の信望があり、大名と秀吉の間をとりなす豊臣政権の枢要な位置を占めました。同18年に病が重くなり,秀吉の小田原攻めに出陣することはなく、畿内の留守居を務めましたが、翌年1月に大和郡山城で病没しました。享年52でした。

絵本太閤記

 寛政9年から享和2年(1797~1802)にかけて刊行された読本(よみほん)(7編84冊)です。著者は武内確斎とされ、庶民に人気があった秀吉の出世物語に、岡田玉山による精細な挿絵が多数入っています。幕府から文化元年(1804)に絶版を命じられました。

1. 豊臣兄弟が連携して稲葉山城を攻める

稲葉山城
A0144-91302「絵本太閤記 初編 八」(松平文庫(国書漢籍)・当館保管)

 絵本太閤記に豊臣秀長が最初に登場するのは、永禄10年(1567)、織田信長の美濃斎藤氏の居城・稲葉山城攻めです。秀吉・秀長兄弟が連携して、城を攻略したことが記されています。挿絵は秀吉たちが城の搦手(からめて)(裏手)から城内に侵入しようとする場面です。

2. 秀吉、織田軍の殿(しんがり)として奮戦する

金ヶ崎の殿
A0144-91302「絵本太閤記 二編 二」(松平文庫(国書漢籍)・当館保管)

 元亀元年(1570)の越前朝倉氏攻めで、信長は金ヶ崎(現敦賀市)の戦いに勝利しました。しかし、近江浅井氏の離反により、朝倉・浅井両軍から挟撃される危機がせまり、撤退を余儀なくされました。挿絵は殿(軍隊最後尾)となった秀吉が敵兵と奮戦する場面です。

3. 勝家、北庄落城を前に三姉妹を秀吉へ送る

お市と三人の娘
A0144-91302「絵本太閤記 五編 五」(松平文庫(国書漢籍)・当館保管)

 天正11年(1583)、秀吉に攻められた柴田勝家は、北庄城落城を前にして、夫人・お市の方の娘(茶々・初・江の三姉妹)を、秀吉のもとへ送ることになりました。挿絵は親子の別れの場面です。娘のうち、茶々(淀殿)は、後に秀吉の側室となり、豊臣秀頼を生みました。

会場位置MAP

会場_文書館閲覧室