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昭和100年関連展示「戦時下の銃後のくらし」

 「昭和」になって100年、太平洋戦争が終わって80年が経ち、大戦の記憶が薄れてきています。文書館には記憶をつなぐための「記録」が残されています。戦時下の国内はどのような状況だったのか。大戦中の銃後の様子がわかる資料を展示しています。

戦時下の銃後のくらし

目次

  1. 学校教育・学徒勤労・軍事教練
  2. 大政翼賛会発足・国民義勇隊
  3. 供出・配給・決戦食(代用食)・代用品
  4. 満蒙開拓青少年義勇軍
  5. 国民貯蓄運動・献納
  6. 疎開・防空演習と灯火管制・慰問・防諜


開催期間:2026年5月29日(金曜日)~7月15日(水曜日)9時~17時
場所:福井県文書館閲覧室(入館無料)
企画展示リーフレット:2026年度企画展示「戦時下の銃後のくらし」

◆関連イベント:「ゆるっトーク」(ギャラリートークです)

日時:2026年6月13日(土曜日)・7月12日(日曜日)、どちらも15時~15時40分
場所:文書館研修室
定員:(当日自由参加)

 


1. 学校教育・学徒勤労・軍事教練

【学校教育】 戦時下の教科書として尋常小学校の「ススメ ススメ ヘイタイススメ」が知られていますが、各種学校の教科書にも戦時色が出ています。展示している教科書からは学校でどのような教育が行われてきたかがうかがえます。右の図は、昭和19年時点の学制に、展示資料を対応させたものです。
 あわせて、学校で作られる文集(展示資料は福井中学校の「明新」)も戦時色の濃い内容でした。

【学徒勤労・軍事教練】 徴兵で抜けた労働力の確保のため、年少者も勤労動員されていきます。昭和13年には学生・生徒に長期休業中の3~5日の勤労奉仕が義務づけられ、昭和18年6月には軍事教練が強化されます(学校での軍事教練自体は大正14年開始)。
 昭和19年3月には学徒勤労動員を通年で行うことが義務づけられ、さらに昭和20年4月には、1年間の授業停止による学徒勤労総動員の体制(事実上の学業停止)となりました。

昭和19年の学制
昭和19年の学制(文部科学省の図に加筆)(尋常小学校は昭和16年4月より国民学校となる)

水産学校生の竹槍訓練
左:「通年動員を実施」福井新聞(昭和20年3月15日)、右:「全学徒を援農へ」 福井新聞(昭和20年5月19日)

1.1 「ススメ ススメ ヘイタイススメ」

 昭和8年度から使用された尋常小学校1年生の国語の教科書です。カラー印刷で作られ、子どもの話し言葉や反復法が用いられました。一方で、展示箇所のような軍国主義的題材も採用されました。

1.2 濃くなる教科書の軍事色

 現在の小学校4年相当の国民学校の国語の教科書です。「神の剣」「潜水艦」「軍旗」「ゐもん(慰問)袋」など、軍国主義的な題材が多く採用されています。展示部分は「三勇士」という題材の一部です。

1.3 小学生が行った慰問活動の記録

 軍に送る慰問の「づくは(図画ヵ)」を書いたことが尋常小学校6年生の日記に記綴られています。小学生らしい日常が綴られる一方、元旦や2月11日の「紀元節」に登校したことが綴られています。

1.4 生徒の作る文集「明新」

 福井中学校(現・藤島高校)の文集です。冒頭部に生徒作の標語が掲載されています。生徒の寄稿文の章である「聴け此の決意」にも「大東亜共栄圏と学生」「正義の戦」など、戦争遂行を是とする記事が溢れています。

1.5 「陸海軍の軍人になるには」

陸海軍への志願方法、各種兵学校の紹介だけでなく、列強の海軍艦艇の保有数比較図や、袖章・肩章の階級別一覧図など、子どもの興味関心を引くような内容構成になっています。

1.6 青年学校の教本

 「青年学校」は昭和10年に設置され、職能実務教育と軍事教練を両立させたものです。皇国民教育の中心となった「修身」や、実技だけでなく座学を含めた軍事教練を行う「教練」の項目が入っています。

1.7 県立工業学校作成の教本

 藤島高校、科学技術高校などの前身である福井県立工業学校作成の教本です。
 展示部分は「哨所(見張りに立つ場所)こそ自己の身骨を埋める最後の墓場と覚悟」せよと説いています。

1.8 福井高等工業学校の教本

 福井大学工学部の前身である福井高等工業学校作成の軍事教練用の教本です。
「学徒に軍事基礎訓練を施し至誠尽忠の精神培養を根本」とするとして、学校教練の目的がうたわれています。


2. 大政翼賛会発足・国民義勇隊

【大政翼賛会発足】 昭和12年7月7日の日中戦争勃発後「国民精神総動員」の動きが始まり、国を挙げて戦争を遂行する流れが強まっていきます。
 昭和15年10月には大政翼賛会が発足(福井支部は12月)、昭和17年3月には翼賛壮年団が結成されるなど、政党だけでなく各種団体が同会の傘下に入っていきます。
 その末端組織が「隣組」でした。10軒ほどで組織され、共同活動をし、配給を取り仕切り、相互監視が行われました。
 女性の組織も、大日本婦人会に統合されます。

【国民義勇隊】 戦況が極度に悪化した昭和20年には、本土決戦に備え、男子65歳以下、女子45歳以下を対象とした「国民義勇隊」が発足します(福井県は6月発足・女子の年齢条件を撤廃)。これに伴い大政翼賛会は解散します。

婦人会の竹槍訓練
「婦人会の竹槍訓練」昭和18年 O0143-00086井田家旧蔵古写真(県立若狭歴史博物館蔵)
総動員の時系列図
総動員体制の時系列図

2.1 近衛文麿首相の声明文

 昭和12年7月に日中戦争が開戦し、同年9月に「国民精神総動員」が始まります。近衛文麿首相の声明では「帝国(日本)は東亜(東アジア)の安定を望」んでいるのに中国が対抗してくるとして、国民に難局を乗り切る覚悟を求めています。

2.2 翼賛壮年団の結成

 大政翼賛会の理念を実践するため、21歳以上の男子の団体として翼賛壮年団が各地で組織されました。団体結成に関する資料は県内にいくつか残されています。

2.3 「福井県常会時報」

 県が発行していた、国民精神総動員運動の浸透を図るために、協議事項を示した月報です。この号には鉄・銅の回収を促進する記事や、ポスター・標語の選考結果などが載せられています。

2.4 大日本国防婦人会のタスキ

 大日本国防婦人会は、陸軍省・海軍省系の団体で、割烹着にこのタスキをかけた「会服」姿で出征兵士を見送るなど、各種銃後の国防活動を行っていました。

2.5 植林活動のパンフレット

 タイトルが「国家の興隆を念じて樹を植へよ」で、表紙(複製)も軍用機のシルエットとともに「伸ばせ国策」とあります。植林活動でも、それがどのように国家の役に立つのかを述べて活動を推進しています。

2.6 「銃後の護り」

 日中戦争開戦直後に浄土真宗本願寺派が出した冊子です。当時のスローガンである「暴戻支那膺懲(ぼうれいしなようちょう)(※意:乱暴な中国を懲らしめる)」を反映した内容となっており、宗教団体も銃後の一翼を担っていたことがわかります。

2.7 隣組国民義勇隊の隊則

 昭和20年3月に本土決戦を見据えた国民義勇隊が発足します。地域・職場単位の指揮系統が作られました。
 さらに同年6月には国民義勇戦闘隊に組み込まれていきます。


3. 供出・配給・決戦食(代用食)・代用品

【供出】 軍需物資の不足を補うために、昭和16年に金属回収の国民運動が始まります。一般家庭や寺院・教会に対して鉄・銅など金属類の供出が求められました。金属以外にも、木造艦船建造のために「供木運動」も行われました。
 食料も不足し、生産農家には食料の供出が求められました。

【配給】 物資の欠乏が進むと、軍への供給が優先され、国民への物資は配給制に移行していきました。昭和15年4月には米・味噌・塩・砂糖など日用必需品10品目に切符制が導入されます。さらに、昭和17年2月公布の食糧管理法によって、配給は国の統制下におかれます。展示資料の未使用の切符は、不要だったのではなく、切符はあっても現物がないという状況を物語っています。
 主食の配給も雑穀・芋・「お粉」(何らかのデンプン)の混じったものになっていきました。当然ながら栄養不良が蔓延し、不足分は「闇」売買によって賄われました。

【決戦食(代用食)】 食料不足のため、一般に食用でなかったものを食べる「決戦食(代用食)」が取り上げられるようになりました。なお、終戦の年(昭和20年)は、生産力不足と天候不順のため凶作となり、戦地からの復員とあわせ、戦争が終わっても食糧難はより深刻な状態になりました。

【代用品】 戦闘機の燃料にするための松からとれる油(松根油)を集めたり、薪炭用材を集めるために山林も切り払われたりしました。

闇は国賊のすること
「”闇”は国賊のすること」福井新聞(昭和20年7月3日)子どもの言葉を借りて、正規の供出・配給ではない闇取引は恥であるとしている
美味しい代用食
「美味しい代用食」福井新聞(昭和20年8月2日)米やウドンをより膨らませる炊き方を紹介
名勝も戦列へ
「名勝も戦列へ」福井新聞(昭和20年4月16日)気比の松原、金ヶ崎等の森林伐採に関する記事

3.1 古銭も供出

 江戸時代の真鍮製の寛永通宝44,270枚(153 kg)の供出・受領記録です。受領証から、古銅・唐金・砲金など銅を含む置物・金具類が供出対象だったことがうかがえます。

3.2 木材も供出

 艦船を建造するための「軍需造船供木運動」(昭和18年)に応じて欅(ケヤキ)1本、2.33石相当(0.65 m3)を供出したことに対する大政翼賛会からの感謝状です。この運動で各地の巨木が伐採されました。

3.3 物品購入手帳

 豆腐(油揚)・砂糖の購入券で、券を使った跡が残ります。券の範囲内で物資を購入できましたが、現物がないために券があっても配給を受けられない状態になっていきました。

3.4 衣料切符

 衣料の購入に必要な切符で、甲(郡部居住者用)が80点分、乙(都市部居住者用)が100点分ありました。スーツは50点、国民服は32点などと衣類の種類ごとに点数が決められており、点数の範囲内で購入できました。

3.5 「決戦食」についての回覧

 食料事情が逼迫するなか「決戦食(代用食)」が取り上げられるようになりました。本来の食材よりも代用となる食材の栄養がいかに優れているか、というデータを示して、蝗(イナゴ)、田螺(タニシ)の調理法を紹介しています。


4. 満蒙開拓青少年義勇軍

【満蒙開拓】 昭和17年、中国東北部に日本の傀儡国家「満州国」が建国されます。世界恐慌の影響で経済的な苦境にあった日本は、対ソ防備もあわせ、国策として満州移民を推進します。(※満蒙……満州と内モンゴル)
 昭和20年8月のソ連の対日参戦および日本の降伏により、開拓団を含む日本人は満州から潰走し、シベリア抑留など様々な惨劇に見舞われました。

【満蒙開拓青少年義勇軍】 徴兵年齢に達したものが召集されるなか、それより年少の層(数えで16~19歳ほど)を対象とした満蒙開拓移民の募集が行われました。初年度以降は応募が伸び悩み、学校を通じた勧誘が行われるようになります。
 義勇軍は国内の訓練所で3か月の訓練を行って満州入りし、現地で3年の訓練期間を経て開拓団として活動しました。
 募集にあわせて、彼らを統括する指導員、寮母、後には配偶者となる「大陸花嫁」の募集も行われました。
※「義勇軍」は子どもの憧れであった「軍」の名を冠したもので、正規軍や昭和20年に創設される「義勇隊」とは異なります。

総動員の時系列図
図:全国の満蒙開拓青少年義勇軍送出人員(白取道博(1990)「「満蒙開拓青少年義勇軍の変容」(1938~1941年):「郷土部隊編成」導入の意義」より作成)

4.1 満蒙開拓青少年義勇軍に関する通達

 県から各小学校あてに出された、満蒙開拓青少年義勇軍の訓練生の選定と名簿を提出すること、また訓練生の父兄との懇談会を行う旨の通達です。郡市教育会や学校を通じて義勇軍の勧誘を行っていたことがわかります。

4.2 満蒙開拓青少年義勇軍の腕章

 満蒙開拓青少年義勇軍は当初、出身地域に縛られない混成部隊方式でしたが、隊内で出身地別のいさかいが多発したため、同郷の隊員で部隊を構成する方法に変更されました。

4.3 青少年義勇軍の募集パンフレット

 対象は尋常小学校を修了した、数え年で16~19歳(12月2日以降生まれなら20歳でも可)の健康状態良好なもの。初年度(昭和13年)の応募は好調でしたが、翌年度以降は、教員が勧誘に回るようになったようです。

4.4 満蒙開拓の意義を描いた漫画

 2つの資料とも対象となる少年層に向けて、満蒙開拓の意義、義勇軍の隊員になる方法が漫画で載せられています。作者はどちらも人気漫画「のらくろ」シリーズの田河水泡です。


5. 国民貯蓄運動・献納

【国民貯蓄運動】 昭和13年から「国民貯蓄運動」が始まります。戦費確保のため、国債の購入や貯蓄が奨励されました。
 町村の組織や職場で国民貯蓄組合の構成員となって、その組合単位、あるいは、隣組単位で集団加入するなどして、半強制的に貯蓄が進められました。

【献納】 陸軍・海軍に各団体・個人が直接献金して軍用機を購入する運動もありました。鯖江連隊に送る「愛国14若越号」をはじめ、福井県内でも複数の団体が献納運動をしていました。

賞与は根こそぎ
「六億円攻略へ総攻撃 賞与は根こそぎ」福井新聞(昭和20年6月11日)給与が強制的に貯蓄されることがわかる
愛国14若越号
「愛国14若越号」(筧紀夫氏撮影、福井県史より)
愛国三四六二号
戦闘機愛国三四六二号(高志)写真」A0082-00053大島区有文書

5.1 「貯蓄で築け世界の日本135億」

 国民貯蓄奨励局が出したもので、戦時貯蓄の目標額は時とともに増加していきました。「135億円」は昭和16年初頭の目標額です。「国策に協力するの熱意」を以ってすれば困難な目標額も達成できる、と説いています。

5.2 「報国貯金通帳」

 毎月3円を積み立てる貯金通帳です。貯金の払い戻しは現金ではなく「事変国債」でした。資料裏面の預け入れ記録では、昭和20年4月を最後に積み立てが止まっています(理由等不明)。

5.3 「割増金附戦時貯蓄債券」

 35年間で、毎年2回行われる抽選に当選すれば払い戻しを受けられるという債券です。
 民間の賞与等の支払いは、半ば強制的に現金からこのような債券類に代わっていきました。


6. 疎開・防空演習と灯火管制・慰問・防諜

【疎開】 昭和18年12月、文部省は空襲対策として児童の縁故疎開を進めました。縁故を頼って疎開ができない国民学校初等科児童に対しては、昭和19年6月に「学童疎開促進要綱」を閣議決定し、集団疎開を進めていきます。

【防空演習と灯火管制】 防空演習自体は昭和初期から行われていました。しかし、レーダー探知を用いた焼夷弾の空襲には、灯火管制も、ハタキやバケツリレーでの消火活動も敵うものではありませんでした。

【慰問】 前線の兵士を支える(軍事援護)ためとして、手紙や物を詰めた「慰問袋」を送る慰問活動が盛んに行われれました。全国的に百貨店などで慰問品をセットにした商品も販売されました。

【防諜】 敵に情報を渡さない、敵の流す情報を広めない「防諜」(スパイ活動の防止)もうたわれました。

大阪の疎開学童
「大阪の疎開学童 本県に3,143名」福井新聞(昭和19年9月7日)集団疎開の受け入れ状況を伝える記事
スパイに隙を与へるな
「スパイに隙を与へるな」福井新聞(昭和20年8月1日)
敦賀爆撃のデマ
「”敦賀爆撃”のデマ」福井新聞(昭和20年6月19日)3週間後には実際に敦賀空襲

6.1 疎開世帯員の名簿

 昭和19年の東京から福井県南日野村(現・南越前町)への疎開に伴う転出証明書が5通綴じられています。全体では男性6名・女性13名ですが、その中に13~45歳男性は見当たりません。

6.2 防空チラシ

 灯火管制の必要性がうたわれていますが、実際にはレーダーを用いた爆撃に対しては効果を発揮しませんでした。
 昭和20年7月12日に敦賀、続いて同月19日に福井市内が大規模な空襲を受けます。

6.3 灯火管制の方法を示す資料

 防空演習は昭和初期から始まりました。この資料も太平洋戦争の開戦前です。有名な「黒いカサ」(屋内遮光具)以外にも、出入り口から光が漏れない建付けなどが示されています。

6.4 慰問の手紙

 東京市の母子から送られた慰問の手紙です。母からの文書と、5歳の子が書いたと思われる絵が同封されています。
※他の資料より、手紙の受取人(福井市)は昭和17年11月に召集解除(復員)になっており、戦地から持ち帰ったものと思われます。慰問の手紙全文翻刻資料

会場位置MAP

会場_文書館閲覧室