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福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
X0057
資料群名
久保田宗一郎家文書
地域(近世,行政村,現在)
大野郡石徹白村,下穴馬村石徹白,大野市三面(和泉村)
資料の年代
1702年(元禄15)~1871年(明治4)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
石徹白村は九頭竜川の支流石徹白川の奥筋に位置する。
平安時代後半より盛んとなった白山信仰のなかで、白山三馬場が整えられた。当村は、その1つである美濃馬場(長滝寺)からの白山登拝の道筋中にあたる宿(遙拝所)の1つとして、美濃馬場の中居の地と呼ばれ栄えてきた。江戸時代は、郡上藩の支配を受けるが、白山下ノ神社(白山中居神社)領として無高の村とされ年貢は免除された。
村民は社家あるいは社人と呼ばれ、苗字帯刀を許され村や社の重要事項を合議する12人の頭社人(おとな、御年寄りとも呼ばれ、国守の官名を名のることがある)、他の平社人(そのうち12人の組頭は八省卿等の官名を名のることがある)、末社人に分かれていた。
また、神職には、庄屋格で重要事項は頭社人と合議する神頭(「ことう」と読み、もとは頭社人の間で1年交替、のち世襲となり、石徹白騒動後また1年交替に戻る)、他の神主(頭社人の間で交替)、弊司・神楽司(世襲)などがあった。
1958年(昭和33)石徹白村は岐阜県白鳥町に越県合併されるが、その際、三面・小谷堂地区は福井県和泉村の大字として残った。三面地区は、66年(昭和41)九頭竜ダム建設に伴い全戸が離村し、現在は無住となっている。
久保田家についてはよくわからない。
平安時代後半より盛んとなった白山信仰のなかで、白山三馬場が整えられた。当村は、その1つである美濃馬場(長滝寺)からの白山登拝の道筋中にあたる宿(遙拝所)の1つとして、美濃馬場の中居の地と呼ばれ栄えてきた。江戸時代は、郡上藩の支配を受けるが、白山下ノ神社(白山中居神社)領として無高の村とされ年貢は免除された。
村民は社家あるいは社人と呼ばれ、苗字帯刀を許され村や社の重要事項を合議する12人の頭社人(おとな、御年寄りとも呼ばれ、国守の官名を名のることがある)、他の平社人(そのうち12人の組頭は八省卿等の官名を名のることがある)、末社人に分かれていた。
また、神職には、庄屋格で重要事項は頭社人と合議する神頭(「ことう」と読み、もとは頭社人の間で1年交替、のち世襲となり、石徹白騒動後また1年交替に戻る)、他の神主(頭社人の間で交替)、弊司・神楽司(世襲)などがあった。
1958年(昭和33)石徹白村は岐阜県白鳥町に越県合併されるが、その際、三面・小谷堂地区は福井県和泉村の大字として残った。三面地区は、66年(昭和41)九頭竜ダム建設に伴い全戸が離村し、現在は無住となっている。
久保田家についてはよくわからない。
資料群の概要
撮影文書は116点あるが、そのうち、元禄から明治にかけての売券・借用証文などが多くをしめている。
ほかに、大野町長勝寺の宗門改帳や寺送り状、石徹白年番などの「古郷送り一札」などが撮影されている。
否撮文書は「万書留帳」1点である。
ほかに、大野町長勝寺の宗門改帳や寺送り状、石徹白年番などの「古郷送り一札」などが撮影されている。
否撮文書は「万書留帳」1点である。
県史収載
 
県史以外の収載
『大野郡古文書目録』
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
X0709~X0710
関連資料一覧
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